自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2013/04/17
敬和学園の2013年度が始まりました。
入学礼拝とオリエンテーションキャンプを終えた46回生、それぞれ進級をした44回生、45回生、ホッと一息ついたところです。
ところが人間というのは不思議なもので、ホッとしたのも束の間、新しい不安や心配がすぐに浮かんできます。
みなさん同様、私たち教員職員も同じような気持ちがどこかにあります。
その私たちよりさらにみなさんの保護者・家族は、みなさんが敬和学園に入ったは入ったで3年間やっていけだろうか、進級したものの進路はどんなふうに決まるのだろうとかと、もっと心配し不安を感じているはずです。
子どもは親にとっていつまでも心配をしなければならない存在なのです。
そして、それがごく一般的な親子関係のように思われます。
しかし親の子どもへのスタンスは必ずしも昔からそうではありませんでした。
おもしろいヨーロッパの言葉があります。
「子どもは18世紀に発見された」。
一瞬うん?と思いませんか。
子どもが18世紀になって発見されたと言われてもすぐにピンときません。
人間は何千年前から何世代にわたって子どもを産み、育てることを繰り返してきています。
それを前提にすると、「18世紀に子どもが発見された」といわれても、それじゃそれまで子どもはどこにいたのかと、反論したくなります。
「18世紀に子どもは発見された」は、子どもの存在を、それまでの受け止め方とは全く違う受け止め方をするようになった、ことを表しているのです。
18世紀までの中世ヨーロッパは、子どもはあくまでも親の私有物、労働力として扱われていました。
そして、乳幼児期を過ぎた子どもは「体の小さな大人」と考えられていたのです。
この考え方を根底から変えたのがルソーという人でした。
ルソーは「エミール」という本の中で、子どもを成長する植物にたとえました。
子どもは悪い存在として生まれてくるのではない、「小さな大人」でもなく、純真で弱い存在であり、大人がしっかり見つめ、適切な成長の機会と教育の場所を用意すれば、大きく成長できる「すばらしい存在」と主張しました。
これに対して日本の子どもに対する見方は、もともとから優しさがありました。
中世から近代にかけての子育ては、親の愛情に満ちた中で行われるべきものと考えられていました。
子どもは本来敏感で周囲からの影響を受けやすく、内側にあるものをうまくくみ取って導くべき存在というのが基本的な子どもの受け止め方でした。
この違いを父性原理と母性原理という言葉で表すことができます。
キリスト教を中心とするヨーロッパでは、人は神の子であり、個人が神と結びついているという「父性原理」が強く働きます。
これに対して、日本の子ども観は守ってやらなければならないという「母性原理」が強く働いています。
子どもに対する基本的な考え方の違いは、それぞれの良さとそうでない部分があるのですが、日本の今の状況は、社会的ルールをしっかり守ることを要求する父性原理が十分に働かず、母子関係が強く働く社会になっています。
それが学校にも表れています。
どのように表れるかです。
はっきりいって、あまり良いとはいえない状況を作り出しています。
日本の学校は、生徒が自分で考えそれを言葉にすることや、お互いが時間をかけて議論をすることなどをほとんどさせていません。
それを時間的なムダと考えています。
議論したり1人で悩んだりする時間があったら、単語や公式を少しでもたくさん覚えなさいとといいます。
学校でよい評価を受けるのは、教師が求める回答をその通り答えたり、議論するのではなく、周囲との調和をとろうとする生徒です。
これを中世のヨーロッパの「小さな大人」になぞらえると、日本には「大きな子ども」がたくさん生まれていることになります。
このままいくと日本の社会は「大きな子ども」が大部分を占めるようになるのかもしれません。
そうした日本の学校の中で、敬和学園は父性原理と母性原理のバランスを取ることを大事にしながら教育してきました。
受験勉強中心の学校生活ではなく、礼拝、行事・集会を教育の大きな要素にしているのは、自ら考え必要な話し合いを行えるようになるためです。
一人の人間としてしなければならない判断ができるようになるためです。
そして自分の主張と相手の言葉を受け入れることを同時にできるようになるためです。
「体の小さな大人」でもなく「大きな子ども」でもなく、「大人らしい大人」になってもらうためです。
そこで敬和学園は優しいことは徹底的にやさしく、厳しいことには徹底的に厳しくあろうとしてきました。
聖書の言葉に「…ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た羊を探しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶであろう」とあります。
この言葉に従って、一人の存在の大切を大切にし、人間の持つ弱さもまた大切にしてきました。
ただし大切にすることと甘やかすことは違います。
ですから時には、先ほど読んでもらった聖書の「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい」との言葉によってたいへん厳しい態度で臨むこともあります。
この徹底的なやさしさと徹底的な厳しさの幅は狭いものではありません。
相当広い幅があるのです。
みなさんの学校生活は自分で考える自由と他の人と共に生きる自由が保障されているのです
そうした大変恵まれた中に、自分の学校生活があることにしっかり気づいて下さい。その自由を自分と仲間の成長のために使うことが、求められていることを自覚してください。
それができるのが「大人らしい大人」です。
それでは「大人らしい大人」になることを目指してこの1年に取り組んでいきましょう。