毎日の礼拝

校長のお話

2013/03/15

「幕が上がる」(ヨハネによる福音書1章1~5節)

2012年度が終了します。 
舞台・演劇風に言えば、2012年度の学校生活のそれぞれの幕が下ります。
3年間の学校生活の、44回生は第2幕が終了、45回生は第1幕が終了するわけです。
明日からは幕と幕の合間、4月まで休憩に入ります。
2012年度の全校礼拝も今日が最終回です。
そこで、新たな気持ちで4月からの生活を始めるために、幕間、休息の時にぜひ考えてほしいことをお話します。

平田オリザという劇作家・演出家がいます。
男性です。オリザは本名です。
ラテン語の稲を意味するオリューザからとっています。
稲つまり食べ物に困らない人生を送れるようにと父親がつけたとのことです。
その平田オリザが初めて書いた小説がしばらく前に出版されました。
タイトルは「幕が上がる」です。
話の舞台は東京からそこそこ離れた北関東、たぶん群馬県か栃木県の地方都市です。
主人公はその町の公立高校の演劇部に入っている女子生徒、高橋さおりです。
ストーリーは彼女を中心に、演劇コンクールの地区大会と県大会、そして夢のまた夢である全国大会を目指す高校生の1年間が描かれています。
さおりは地区大会を勝ち上がるために、顧問のアドバイスやなどもあって、オリジナルの脚本を書くことにします。
彼女はさんざん悩んだ末、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をベースに自分たち自身が考えていること、悩んでいることを脚本にします。
その思いを言葉にした個所には次のように書かれています。
「進学もクラブ活動も、私たちにとって、たしかに大事な問題だけど、17歳の私には、もっと大事なことが何かある。それがなんなのか、よく分からないけど、その分からなさを、芝居にしてみた」。
演劇というのは出演者が脚本に書かれた台詞を覚えてそれをしゃべるわけです。
ところどころにアドリブを入れることもありますが、舞台上で発せられるのはあくまでも台詞です。
ところが台詞を台詞としてしゃべられている限り、見ている方はあまり面白くありません。
その舞台が観客を引き込んだり、感動を与えたりするとしたら、それは出演者の発する台詞が、そして出演者同士のやりとりが台詞にとどまらず、真実味のある言葉、生きた言葉として聴こえてくる場合です。
同じように使われながら、それが単なる台詞にしか聴こえないのか、それともリアイリティのある言葉として聴こえてくるのか、決定的な違いがあり、それが作品そのもの舞台そのものの評価の違いになります。
平田オリザの「幕が上がる」を読んで、そういうことだったのかと納得できたのはそのような台詞と言葉の間にある違いです。

最近のテレビで毎日のようにあるのが、俳優やお笑いタレントが、おいしいと評判の店に出かけて行き、食べるというのがあります。
食べた直後のリアクションや感想はたいてい決まっています。
一口食べた瞬間、顔をしかめたかと思うと、一瞬沈黙があって、大きく目を見開いたかと思うと、言葉にならないとばかりの表情で「うまい」とうなります。
次に食感がどうの、素材がどうの、口の中にぱあっと広がって…などとあれこれ説明をします。
おいしいということを最大限表現しよう、言葉にしようとしてそうなるわけです。
私はそれを見ていて、以前はついツッコミを入れていました。
「おいしいかどうか、食べた瞬間にわかるわけないやろ、それになあ、評判の店やから言うて、みんながおいしいとは限らんで、嘘くさいなあ」。
今回「幕が上がる」を通して気づかされたのは、タレントは食べたおいしさを言葉にしているのではなく、台詞をしゃべっているのだと言うことでした。
食べて感じたことを自分の言葉で表現しているのではなく、あくまできまった台詞、まあそういう台詞が出てくるだろうなあ、と考えながらそれを口にしているのです。
そこに本当の言葉を、本音を期待するから、なんとなく腹が立つわけで、あくまで仕事として台詞をしゃべっているとしたら、それはそれで納得できるわけです。
ところで台詞は舞台の上やテレビ番組の中でだけ使われているものでしょうか。
もし、それが私たちの毎日の生活の中で、日常生活でも、使われているとしたら、どうでしょうか。
例えば友達同士の会話の中で台詞のやりとりがされているとしたら、言葉が語られていないとしたら、自分が言葉ではなく、いつの間にか台詞をしゃべっているとしたら、虚しい気持ちにさせられます。
というのは今日の聖書、ヨハネによる福音書が言葉のもつ意味、それが、人間が生きる上でいかに重要かを語っているからです。

今日の個所の言葉は深い意味を含んでいるのですが、それがはっきりわからなくても、何が言いたいかは明快です。
「1、はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。3、万物は言によって成った。成ったもので言によらず成ったものは何一つなかった。4、言の内には命があった」。
言葉がいかに大事なものであるか、大事にしなければならいか、生きることと言葉が切っても切り離せない関係にあると書いています。
私はこの原稿を今週の月曜日に出張で出かけた東京のJRの駅の2階のスターバックスで作り始めました。
スタバのカウンター席にはコンセントがついて、パソコンが使えるようになっているので、仕事がしやすいのです。
その駅周辺には大学がいくつもあります。
そのどこかの学生であろう若い人数人の話し声が後ろのテーブル席から聞こえてきました。
別に聞こうと思ったわけではないのですが、大きな声でしたのでやりとりがどうしても入ってきました。
彼らは老人施設での実習についてしゃべっていたのですが、そのやりとりが私には会話ではなく、素人の舞台のまさに台詞のやりとりに聞こえてきたのです。
何か表面的な言葉の言い合っているいるようにしか聞こえてきませんでした。
相手の言葉に反応する際の笑い声やあいづちがまるで決まった台詞をしゃべっているように聞こえてきました。
先ほども言いましたが、今日の聖書は「1、はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。3、万物は言によって成った。成ったもので言によらず成ったものは何一つなかった。4、言の内には命があった」というのです。
この聖書からわかるのは、人間は自分の言葉を持たなければならないということ、持つか持たないかによって、人生がいきいきとしたものになるのか、そうでないのかがきまると言うのです。
確かに友だちや周りの人の言葉によって励まされたり、悩みから抜け出せることもあります。
その一言に救われたということもあります。
けれどそれはあくまで時々のことです。
相手の言葉を聞いて、それを受け止めて、そして考えて、それを言葉にすることが求められているのです。

言葉について、よくされるわけ方に「本音と建前」というのがあります。
本音を言うと相手を傷つけることになる、あるいは相手から悪く思われ嫌われる、だから本音は出さないで、当たり障りのない建前で話す。
先ほどの学生の会話はまさにそれでした。建前はまさに台詞です。
人間というのは不完全ですから、言わなくてもいいことを言って、人間関係を悪くしてしまうことがあります。
そういう経験は誰しもあります。
そこで失敗を繰り返したくないから、本音は言わないでおこうと考える人もいるでしょう。
大事なのは本音というより本気です。
本気で考えて、本気でしゃべる。
本気であることが相手に伝わると、多少の行き違いはあっても、それはそれで受けとめられるものです。
本気で話し、本気で生きる、ことによって存在そのものが、排除されることなく受け入れられるのです。
敬和学園は聖書に書かれたことを大切に考える学校です。
言葉を大切にする学校です。
つまり日常生活の中で台詞を発するのではなく、本気で考え、その本気を言葉にする、本気で生きることを大切にする学校です。
本気になることによって、自分の言葉がもてるようになります。
それが内側から湧きあがってきます。
その言葉が自分を生かすエネルギーになり、他者との関係をあるべきものにしていきます。

4月から新しい幕が上がります。
45回生は第2幕が、44回生は第3幕が、同時にそれは最終幕ですが、その1年をぜひ本気で取り組みましょう。
それでは4月2日の始業礼拝でお会いしましょう。