毎日の礼拝

校長のお話

2013/02/05

「赤頭巾ちゃん気をつけて」(ローマの信徒への手紙13章6~8節)

小説を書く人にとって、ぜひ受賞したいと願う文学賞に芥川賞と直木賞があります。
世間から注目される直木賞と芥川賞なので、受賞した作品や作家自身のことが話題になることもよくあります。
先週発表された第147回芥川賞の受賞者の黒田夏子さんは75歳というこれまでの最高齢者でした。
逆に直木賞の朝井リョウさんは戦後の最年少受賞者ということで話題になりました。

「14歳からのハローワーク」などの作者である村上龍は大学生の時に『限りなく透明に近いブルー』という作品で芥川賞を受賞したのですが、当時選考委員だった一人が「これは文学ではない」と委員を辞任したこともあります。
同じように芥川賞を受賞した際に、時代を反映したすばらしい作品であると絶賛をされる一方で、「ムダな、つまらないおしゃべりがくどくど書いてあって、私は読みあぐねた」と酷評されたものに「赤頭巾ちゃん気をつけて」という小説があります。
今から44年前の1969年、私が高校2年生の時の作品で、すぐに読みました。
その「赤ずきんちゃん気をつけて」を2週間前に43年ぶりに読みました。
改めて読むきっかけは「赤頭巾ちゃん気をつけて」が大手出版社の文庫本としてあらためて出版されたことと、作者である庄司薫が出版後25年後と43年後にそれぞれ「あとがき」を書いたことを知ったからです。
本のあとがきというのは、まさに「あとがき」ですから、本を書いた直後の思いを書くものです。
何十年もたった経った作品に書くことはまずありませんし、3回も書くこともありません。
たとえ本人がそうしたくてもできるものではありません。
それは出版社が決めることです。
ということは、出版社は「赤頭巾ちゃん気をつけて」が今の時代にも大きな意味や価値を持っていると考えたわけです。
「赤頭巾ちゃん気をつけて」の主人公は高校3年生の薫という少年です。
彼は東京都立日比谷高校に通っています。
日比谷高校というのは当時東京大学に毎年200名近くを合格することでよく知られていた、いわばエリート中のエリートが通う学校、日本で一番有名な高校でした。
主人公の薫も当然東大を受験するつもりでいたのですが、その年、東大は学生運動が激しくて入学試験が中止になりました。
この本は東大の入学試験が中止になって、どのように生きたらいいかを考える薫の冬のある一日を描いています。

薫のその日は散々な始まり方でした。
12年飼ってきた愛犬が死にます。愛用の万年筆を落とします。
もやもやした気持ちを爆発させるように、思わず足を振り上げたら、打ち所が悪く、左足の親指の生爪をはがしてしまいます。
43年前にこの小説を読んだ私の感想はあまりパッとしませんでした。
それは、同じ公立高校とはいえ、レベルの違いすぎる学校に通っている高校生の、それに加えて家が裕福で何の苦労もしないで、すっと大きくなってきたように思える高校生の、何か鼻にかけて様な生活にムカッと来たからです。
さらに言葉遣いがそれまでの小説にはないようなやわらかく自然な文体になっていることもあって、キザでチャラチャラしたことを書いていると思いました。
ですから、もう一度読もうという気にはなりませんでした。
ところが43年ぶりにあらためて読んだ「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、別にチャラチャラした内容の小説ではなく、むしろ自分がどのように生きるべきかを真剣に考える高校生の一日が描かれている作品でした。
問題は作品にあるのではなく、当時の私自身にあったのです。

当時の私は、どこかイライラしていて、あるいは何か物事を深く考えているようで、実は表面的な人間でしかなかったとつくづくわかりました。
チャラチャラしていたのは私の方であったのです。
言葉を受け止める力も生き方も素直さに欠けていたのです。
当時の私にピンとこなかった主人公薫の言葉に今なら大いに共感できます。
たとえば、薫はその日、自分が1年生の時に地下鉄の中で真向かいに座った女性のことを思い出します。
とてもおしゃれな感じのその女性は人目もはばからず、頬いっぱいに涙を流して泣いていました。
薫は周囲の乗客と同じように、それをびっくりしながら見ていたのですが、大人の女性が人前で涙を流して泣くというのは、相当のわけがあると考えました。
同時に、薫はその女性に対して自分が何もしてあげられないこと、無力であると痛感します。
そこで薫はひとつの決心をするわけです。
その決心とは、人に言えば笑われるけれど、自分は一生女性を泣かすようなことはしないぞ、ということでした。
女性を泣かすようなことは、本当に絶対いけないと考えたのです。
私はこれを高校生の時はキザでチャラチャラしていると感じたわけです。
けれど今回は違う受け止め方ができました。

女性を泣かすということの意味を深く考えた時に気づかされることがあります。
それは男社会の戦争や紛争、あるいは権力闘争のために人の命が簡単に奪われることが起こり、そのために誰が一番深い悲しみを受け泣くことになるのかということです。
それは間違いなく母親という立場に生きる人です。
更に近い現実でいえば、原発事故によって子どもが被曝をしたかどうかで今一番悩み悲しみ、そして泣いているのは若いお母さんたちです。
中東の紛争や戦争で、あるいは爆弾闘争のために、犠牲になった子どもを抱えて、声を出して泣いている女性をニュースで見ることがよくあります。
女性が人前で泣く時、そこには男社会が作りだしている、一つ一つの尊い命が軽く扱われる現実があります。
それこそ神様に対して恥ずかしい行為が繰り広げられているのです。
そのことに気づくならば、高校生の薫の一つの決心が、「愛は隣人に悪を行いません」と10節にありますが、まさに人の命を大切にすることにつながっていることがわかります。

私が高校生の時に、主人公薫の一つの決断を理解できず、共感できなかったのは、心が柔らかくなかったからです。
その点が敬和学園で学んでいるみなさんと違う点です。
43回生は3年の敬和生活を通して、自らの心を柔らかくすることを行ってきました。みなさんは、弱さを受け入れることによって、自らの素直さをしっかり出せる存在に、隣人に心を寄せることができる、また寄り添うことから生まれる生きる喜びを知った存在になっているはずです。
それでは今週も自らの課題が何かを考えつつ、共に歩んでいきましょう。