自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2012/12/20
< 寮クリスマス無事終了! >
昨日、無事寮クリスマスが終了しました。それぞれに役目を担った2年生の委員会のみなさん、食事準備や片付けをしてくれたみなさん、ありがとうございました!
1年生も見事な飾り付けをしてくれました。なによりも嬉しかったのは、飾り付けが上手にできたことではありません(もちろん、それも嬉しかったですが)。特別嬉しかったことは、1年生のみんなが一生懸命飾り付けに取り組んでくれたことです。仲間と協力し合って一つの目標に向かって力を合わせるのはとても大切なことだし、難しいことのように思います。それを1年生のみんなは見事にやり遂げてくれました。毎日、遅くまで作業をするみんなの顔は「眠い」とか言いながらとても楽しそうでした。こういうひとつひとつのイベントを通して、みんなの横の繋がりがますます強くなっていけばいいなぁと思います。もちろん、衝突や上手くいかないことがあってもいいと思います。無理に周りに合わせようとか、自分の意見を表に出さないのでは、本当の意味で強くて深い繋がりや絆は作れていけないのだと思います。1年生のみんなはこの経験を大切にして欲しいなぁと思います。
(三浦)






< 献げる >
先週の土曜日にのぞみ寮クリスマスが行われました。ゲストの方々を交えクリスマスディナーを食べ、みんなでクリスマス礼拝を守り、チャペルで行事委員の準備してくれたイベントで盛り上がりました。こののぞみ寮クリスマスに向けて、礼拝委員会を中心に各館でクリスマス献金を募りました。
今回のクリスマス献金は、被災地で(仙台と石巻を中心に)被災支援活動をしている東北教区被災支援センター“エマオ”と青年海外協力隊(JICA)の隊員が、本来の活動以外に現地で気付いた問題に取り組むための“小さなハートプロジェクト”に送らせていただきます。“エマオ”には、未だに被災地では大変な状況の中で生活している人がおり、そのことを覚えて、また被災地とつながり続けようという目的で献金を送らせていただきます。“小さなハートプロジェクト”には、今回クリスマス礼拝でお話くださったエミタイのKさんが昔、青年海外協力隊としてセネガルへ行かれていたことから、海外で活躍している青年海外協力隊の活動を覚えて献金させてもらうことになりました。
光風館では、クリスマス献金の“最低金額”を500円に設定し、11月の後半から献金を募り始めました。点呼の時に私と礼拝委員のKくんで献金箱を持って各部屋をまわらせてもらいました。寮クリスマスまでの約5週間、クリスマス献金を募ったので、1週間100円献金すればよい計算になります。1週間の中でジュースやお菓子を1つ我慢すれば献(ささ)げることのできる金額です。仮に「献金はいくらでも結構です」と言っていたら、恐らく毎日の献金はみんな1円や10円程度しか協力してくれなかったかもしれません。でも、“最低500円”ということで、みんなよく協力してくれました。特に私が、被災地や海外で貧しい思い、大変な思い、なにかを必要としている人がいることを、光風館の礼拝で話をした日には本当に多くの献金が集まりました。それだけひとりひとりが考え、自分のすべきことをしてくれたのだと思います。中には“最低金額”を超えて献金し続けてくれた人も多くいます。みんなの協力によって光風館だけで47,226円(保護者からの献金10,000円を含む)のクリスマス献金が集まりました。
今回はクリスマス献金でしたが、これは何もクリスマス献金だけの話ではありません。毎週日曜日の教会の礼拝でも献金を献げます。教会の献金には“最低金額”は設定されてはいません。しかし、敬和から町までの往復のバス代、朝食や昼食まで教会から出していただいていることを考えるなら、日頃の教会のお支えに感謝して献金を献げなくてはならないと思います。
献金を献げるとは、単にお金を献げるのではなく、みんなの想いも献げるのです。「献金の金額が想いを表す」とまでは言いませんが、教会での献金は1円や10円の献金ではなく、感謝をもって“最低数百円”献げましょう。(三浦)
< 繋がりについて >
人は、他者との関わりを通して成長し、その繋がりが広く深いほど、人生の大きな糧とすることができます。学生時代の人間関係は貴重なものだと言われますが、それは仕事上の付き合いと違い、損得の計算を度外視した繋がりであるからでしょう。社会生活を送る上で、多くの他者との繋がり(人脈・コネクション)を持つことは、大変重要です。そして、それらをたどっていくと、学生時代の繋がりに行きつく場合が多いと思います。なぜなら、人間が最初に家族以外の他者と社会生活を送る場所が、学校であるからです。この2点においてこそ、学生時代を寮という共同生活の場で過ごす、最も大きな意義があるのではないでしょうか。共有する時間が濃密であればあるほど、出会いの多い、絆の深い人間関係となります。通常、そうした人脈づくりや人間関係づくりは、大学という場でなされることが多いのですが、より多感な年代である高校時代に、しかも共同生活の中で培われる人間関係は、より貴重なものであると私は考えています。
箴言27章の聖句にある「研磨」とは、研いで磨くことであり、「少しずつ削る」という意味があります。共同生活における人間関係づくりもまた、身を削り心を削る、ある種の痛みを伴わずにはできません。まったく性質の異なる多くの人間が、狭い場所で共に生活する以上、摩擦が生じるのは当然のことです。私も高校在学中は二人部屋であったため、3年間で計9人の同室者と過ごしましたが、タイプの違う相手とは互いにイライラすることが多くありました。しかし、これがもし職場であったとしたら、それだけではすまなくなります。人間関係の円滑でない職場で、仕事の能率が上がるとは思えません。私は同室者との生活を通して、「付き合い」と、相手に合わせる気遣いの大切さを学びました。また、行事に限らず、集団が一つの方向に進もうとする時、必ず同調しない人が現れます。自分なりの信念を持った複数の人間がいて、それぞれ違う方向を見ているとしたら、衝突が起こるのもやはり当然のことでしょう。私の母校では、学期末や学年末に全校(と言っても80人ほど)で話し合いの時が持たれ、学校や寮の約束事について議論したものでした。そこから学んだのは、相手の話を聴き終えてから反論を考えないと、議論がかみ合わずに悪い感情ばかり高ぶってしまうという現実。人間は何か話す前、自分の言わんとする文章を頭の中で組み立てるものですが、それをしている時、他人の言葉がほとんど耳に入らない状態になるためです。小さなことながら、こうしたノウハウを社会に出てから身に着けるのは、案外難しいのではないでしょうか。
来月、高校のクラス会(同窓会)が行われることになりました。クラス単位のものとしては、卒業以来初めてです。私の学校の卒業生は敬和生同様、出身地が広範囲に及び
海外にいる場合もあるため、どのクラスも全員が集まるというのは難しいのですが、私のクラス(卒業時28人)の場合、全員が集まることは物理的にあり得ません。10年前、1人が事故で他界しているからです。しかし、今回のクラス会の開催日である1月4日は彼の命日であり、会場となる横浜市も、彼の実家がある所なのです。彼の肉体は既に
この世にありませんが、彼の「存在」が、今回我々クラスメイトを集めてくれたという見方もできると思います。さらに言えば、以前にクラス単位で集まったのが彼の葬式の時であることから、彼が我々を繋ぎとめてくれている、とも言えるのでしょうか。これが、私の高校時代に培った人間関係の一つの「現在形」です。皆さんの寮生活も、卒業後に様々な形で生きるものとなるよう願っています。
(和田)