自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2012/11/12
作家重松清の小説に「希望が丘の人びと」があります。
主人公は中学校の先生だった妻圭子をガンで亡くし、中学生の娘美嘉と小学生の息子亮太を育てている40歳になる田島さんです。
大切な家族を失った一家は再出発をするために、圭子さんが小学校から中学校時代を過ごした希望が丘ニュータウンという町に引っ越しをします。
そして、田島さんはその町で栄冠ゼミナールという進学塾を始めます。
物語は、亡くなった圭子さんの中学校時代の同級生との出会いや中学生の美嘉の周りで起こるイジメなどを通して、田島さんが自分の人生を振り返り、生き方を考えることを中心に進んでいきます。
タイトルの「希望が丘の人びと」の「希望」と名づけられた町が日本のあちこちにあります。
けれどそのほとんどが元からある地名ではありません。
もともと違う地名の田んぼや畑であった所、森や林や丘陵地帯であった所を、大規模開発して造成し住宅を建てて作られた地域や町に、新しくつける名前として「希望」が使われることが多いのです。
新しく作られた町の住民となる人たちは、土地を買い建物を買ってそこに住むわけです。
家を買うというのは、その人や家族にとって一生のうちで最も大きな買い物です。現金で何千万もする家を現金でポンと買えるような人はほとんどいません。
たいていの人たちは住宅ローンを組んで、毎月返済する、それを何十年に渡ってやり続けなければなりません。
家を買うというのは相当の覚悟が必要です。
そのような覚悟をしてまで家を買うのは、何より一家が幸せな生活をしたいからとの願いがあるからです。
一軒の家を構えることによって、子どもたちが健やかに成長してくれることを願うからです。
そこで、そういう家族が住む町、いわゆるニュータウンの名前として、希望という漢字が使われることになります。
希望という言葉がキーワードになって進んでいく小説「希望が丘の人びと」ですが、この物語は本を読む人に一つの問いかけをしています。
それは「もしも」という接頭語、英語でいうと「イフ」をどのように考えるかということです。
そこで「もしも、イフ」ということについて考えてみたいと思います。
「もしも」という言葉は未来形、過去形のどちらにも使うことができます。
けれど未来形と過去形では意味が全く違うものになります。
たとえば子どもが「もしも」という場合はたいていが意識が未来に向いています。たとえば「ドラえもん」からもわかります。のび太はドラえもんにしばしば無理なお願いをします。
学校で宿題が出されたら、その答えをすぐに書き始める鉛筆を出してくれないか。テレビで見たおいしそうな料理をすぐに作ることができる調理器具をだしてほしい。
全てがお願いです。
もしそれがあったら、自分は楽しい生活ができる、という夢を見ているわけです。そういう意味で未来志向です。
何もドラえもんだけでなく、私たちも空想をすることがあります。
「翼をください」という曲の出だしは「今、私の願いごとがかなうならば、翼をください」です。
みなさんがこの曲を歌ったり聴いたりするときの気持ちは、もし自分に翼があったら、自由に空を飛ぶことができる、あれこれ自分の夢をかなえることができるのに、もしそうなったら、いろんな人と出会うことができて楽しいだろう、というように思いは未来に向かっています。
ところが『翼をください』を私の年代の人が歌う時、思いが未来に向かうことはほとんどと言っていいほどありません。
たいていは過去に向かっています。
私にも若い時があって、あのころは何をしても楽しかったなあ、あの頃一緒に遊んだ○○さん、憧れた○○さんは今どうしているだろうか、という懐かしい思いが蘇ってくるわけです。
それはそれでいいのですが、しかもその「もしも」から愚痴や後悔が湧き上がる、思い出されることも多いのです。
もしもあの時、ああしていれば、もしもあの時にあんな間違いをしなかったら、こんな人生を送ることにはならなかったのに。
それが私の年齢、つまり歳をとった人間の「もしも」の特徴です。
ところで高校生の年代のみなさんにとって、「もしも」は未来志向でしょうか。
それとも過去形が強いのでしょうか。
それは子どものように、そして私のような年輩の人間と違って、年齢によってはっきり分かれことはありません。
人によってそれぞれ違うのです。個人差が大きいのです。
そこで考えたいのは、「もしも、イフ」を未来に向かわせるのか、それとも過去に向かわせるのかによって、毎日の生活と生き方は全く違うものになるということです。
もしあんなことがなければ、私は今全然違う人間になれていたのに、とただ過去を消したいという思いに留まるということは、それはそのまま今につながり、現実を否定するもの、さらに自分の存在を否定することになってしまいます。
そこからは未来志向は生まれてきませんし、今を生きる力になる夢を見ることも難しくなります。
私のような年輩の人間は「もしも」が基本的に過去に向かうといいましたが、それでは私には夢がない、希望が持てないかといいましたら、必ずしもそうではないのです。
それを短い言葉で語っているのが、今日の聖書です。今日のところには「私たちの救い主である神と私たちの希望であるイエス・キリストに任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから」と書かれています。
パウロという人は周りの人もそして自分も忘れられないような酷いことをかつて大勢の人にしました。
やがてそのことに気づかされるのですが、その時、絶望的になっても仕方なかったはずです。しかしパウロは消し去りたかったに違いない自分の「もしも」を、未来志向に変えて、自分の人生を生き抜きました。
それができたのは、彼がイエス・キリストそのものを希望とすることを知ったからです。
イエス様を人生の希望とすることによって、私たちも過去のさまざまな「もしも」にとらわれてガンジガラメにされるのではなく、未来に向かう「もしも」、希望と夢を持つことができるのです。
それでは新しい1週間を共に歩んでいきましょう。