毎日の礼拝

校長のお話

2011/12/05

「アルタバン」(マタイによる福音書2章9~11節)

先週のことですが、西本幸雄という人が90歳で亡くなりました。
西本さんはプロ野球パリーグの監督を長くされた人です。
私が小さい時からファンの阪急ブレーブス、今のオリックスとそのオリックスと合併をした近鉄バッファローズで長い間監督をされました。
どちらも弱いチームでしたが、それを強くして合計で6回のリーグ優勝をさせました。ただ、どういうわけか日本シリーズでは勝てませんでした。
そのために、マスコミは西本さんを「悲運の闘将」と呼ぶようになりました。
悲運というのは運がない、不幸ということですが、西本さんが自分がそう呼ばれるのを嫌っていました。
西本さんはプロ野球の監督を長くできた自分を幸せな人間と考えていたからです。
自分の人生が幸せか不幸か、そして運が良いか悪いかは、瞬間瞬間で決まるのではなく、長い目で見なければわからないのです。
 

そのことを、身を持って教えてくれるのがアルタバンという人です。
先ほど読んでもらったイエス・キリストの誕生の場面には、占星術の学者たちが登場してきます。
クリスマスの劇では東の国ペルシャからやって来た博士たちと呼ばれます。
博士たちがイエス様に差し出された贈り物が没薬・乳香・黄金と3つだったので、博士は3人いたということになっています。
彼らは星の動きをたどりながら、長い旅をして、イエス様の誕生に立ち会うことができました。
その意味で運の良い人たちでした。
面白い話があります。それは、博士は3人ではなく、4人だったというのです。
その4番目の博士の名前がアルタバンです。
もしマスコミがアルタバンに形容詞をつけるとしたら、まさに悲運の博士でしょう。
そもそも博士たちが、長い旅をしてユダヤに行くことにしたのは、不思議な星を発見して、その星が示す場所にこの世の救い主が誕生するということがわかったからです。
そこで彼らは歴史的瞬間に出会いたいと、旅に出ることにしたのです。
4人はそれぞれ救い主へのプレゼントを用意します。
アルタバンは「サファイアとルビーと真珠」を用意することになったのですが、宝石を手に入れるのに時間がかかりました。
そのために約束の場所に着くが遅れそうになります。
さらに運の悪いことが重なりました。
道を急いでいる途中で、道端で倒れている人を発見します。
彼は少し迷ったものの、やはり放ってはおけず介抱し、そして持っていた薬や食料を全部男に与えます。
そのために、約束の場所にたどり着いた時には、他の3人は星の動きを追って出発した後でした。
そこでアルタバンは贈り物にするはずのサファイアを売ってラクダや食料を買いなおして、彼らの後を追います。
 

長い旅の末、ユダヤのベツレヘムにたどり着きました。

アルタバンは一軒の家に入り、赤ん坊を抱いた女性に他の博士たちのことを尋ねます。
そこで彼が知ったことは、3日前に東方から来た博士たちが、ナザレ人の出産に立ち会い、高価な贈り物をして、すぐにどこかに立ち去ったこと、そのナザレ人一家も、ヘロデ王の子ども虐殺から逃れるためエジプトに向かったこと、でした。
アルタバンががっくりしていると、2歳以下の子どもを殺すために、兵士たちが家の中に乱入してきました。
そこでアルタバンは、赤ん坊の命を守るために、兵士たちに宝石を渡します。
そして気を取り直してエジプトに向かいます。
ようやくたどり着いたエジプトで、イエス様一家を探し回りますが、どうしても見つかりませんでした。
アルタバンはある日、自分が歩き回っている町中には貧しい人や病気の人たちが溢れていることに気づきます。
そこで彼は持ち物を売って、彼らに食べ物を分け与えます。
そうこうしているうちに月日はどんどん流れ、ペルシャを出発してから33年が経ちます。
アルタバンはある日エルサレムにやってきました。
その日エルサレムの町は大騒ぎでした。
その理由は「ゴルゴダの丘で強盗が2人十字架にはりつけにされること、それにもう一人ナザレのイエスという人も一緒に十字架にかけられるからでした。
アルタバンはそのナザレのイエスが長い間探し求めてきた人物だと知り、急いでゴルゴダの丘に向かいました。
ところが、途中で若い女性に助けを求められます。
女性は父親の借金のかたとして奴隷に売られるところでした。
迷ったあげくアルタバンは懐から真珠を取り出し、女性を助けようとしました。
次の瞬間、大地震が起こり、屋根瓦が落ちてきて、アルタバンの頭に当たり、彼はその女性の腕の中で死んでしまいます。
話はここで終わります。
 

それでは33年間探し求めたイエス様にようやく会えそうになったにもかかわらず、事故で死ぬことになるアルタバンは運の悪い人、不幸な人生を過ごした人だったのでしょうか。
記憶が薄れていく中で、アルタバンは誰かに次のように答える自分の声を聞きます。
「いいえ、違います。主よ。いつ私はあなたが空腹なのを見てパンを恵み、乾いているのを見て水をさしあげましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着物を着せてあげましたか。ただ、33年間あなたを捜し求めてきただけです。しかし、とうとう一度もあなたにお会いすることもできず、何もあなたのお役に立ったこともできませんでした」。
すると、やさしい声が返ってきました。
「あなたに言っておく。私の兄弟である、これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、私にしたのである」。
この瞬間、アルタバンは自分がイエス様に出会うために旅をした中で、道端に倒れていた人、虐殺されかかった赤ん坊、奴隷として売られそうになった女性など、アルタバンが出会ってきた、そして助けを必要としていた人たちこそが、彼が出会いたいと願った救い主そのものであったということに気がつきます。
この瞬間に、彼は自分人生がいかに幸せであったか、幸運であったか、素晴らしい出会いをしてきたかを知りました。
自分が不幸な人間か、幸せな人間かは後になってわかるのです。
ただ神様はその時に必要な出会いと助けを必ず用意してくださっているのです。
神様はその人が進むべき道を用意してくださっているのです。
自分にとって大事なことは後になってわかるのです。
そのことを今しっかり知っておくこと、心に刻んでおくこと、それが今を生きる私たちに何より求められているのです。