自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2026/11/05NEW!
【聖書:コリントの信徒への手紙 一 12章 12〜27節】
「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」
「腸活ブーム」で注目される腸内フローラには、善玉菌・悪玉菌・日和見菌など多様な菌がいて、悪玉菌も含めたバランスと調和が心身の元気を支えてくれている。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一12章で、人々の集まりを多くの部分から成る「一つの体」に例えた。私たちの学校も同じで、自分と「異なる」人を排除せず、互いを尊重し認め合うことが、神様の望まれる「調和」ではないだろうか。また「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しむ」とあるように、誰かの痛みに気づいて声をかけ合える、そんな温かいお花畑(フローラ)のような居場所をみんなでつくっていきたいと願う。後期の後半、友達の違いも大切にしながら、充実した「敬和生活」を送っていこう。