自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2026/09/17
【聖書:ルカによる福音書 13章 6節~9節】
そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
高校2年生の時、わたしは洗礼を受けました。洗礼の準備会で先生が語ってくださったのが、ルカによる福音書13章の「実のならないいちじくの木」のたとえでした。
実を結ばない木について、園丁は「今年もこのままにしておいてください」と願い、それでも実がならなければ「切り倒してください」と言います。一般には、神が人間の悔い改めを忍耐強く待っている一方、裁きには限りがあることを示すたとえだと思われます。しかし先生は、「切り倒す」という言葉に注目しました。木を切っても根は地中に残る。根が生きていれば、そこからもう一度、新しい芽が出ることがあるというのです。
今年3月、北海道で先生の説教を聞きました。重い病気を経験し、以前のように歩くことができなくなった先生は、車椅子に座り、苦しそうに呼吸をしながらも、小さな声でゆっくりと聖書の言葉を語っておられました。その姿を見ながら、かつて先生からいただいたはがきに記されていた「主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます」(詩編145・14)という詩編の言葉を思い出しました。
人生には、自分が切り倒されてしまったように感じる出来事があります。間違った道を選ぶことも、前に進めなくなることもあります。しかし、「切り倒されること」と「すべてが終わること」は同じではありません。過去をなかったことにはできなくても、それまで生きてきた同じ根から、もう一度、新しい芽を出すことはできます。
わたしは聖書を歴史文書として読むことを大切にしています。しかし同時に、自分の生活や経験に根ざして、心で聖書を読むことも大切だと思っています。高校生の時には先生の言葉に支えられ、今は病を抱えながら生きる先生の姿そのものに支えられています。一本のいちじくの木を通して教えられたのは、人間は倒れても、そこで終わるのではない。根が残っている限り、何度でも新しく生き始めることができるということです。