のぞみ寮通信

大望館

2011/10/13

大望館通信 第178号(10月10日)

< 学校での礼拝のお話より >
 

皆さんおはようございます。
今日この場でお話をさせてもらうに当り私はこの聖書の箇所を選ばせてもらいました。


なぜこの箇所を選んだのか、それは今回の私たちの修養会、また私自身の敬和での生活を通して感じた事と重なったからです。
 

 私たち3年生の修養会は、ここ新潟から遠く離れた北海道の地を訪ね、アイヌ民族の伝統的な文化に触れ、今の時代を生きるアイヌの人達の世界観や社会生活の現実を学ぶことでした。そのなかで特に2つの事柄が強く印象に残りました。
一つはアイヌの人達の自然との関わり方です。アイヌの人達は自然と共に生きてきました。アイヌの人達は、自分たちが何を食べているのか、何を飲んでいるのか、何を着ているのか、その一つ一つを深く考えながら、あらゆる命を大切にし、自然を大事にして生きています。それに比べ自分の生活はどうだろうか?と考えさせられることが沢山ありました。今問題になっている福島原発事故を取ってみても分かります。私たちはどれだけ大きなものを犠牲にして、どんな快適さと便利さを手に入れてきたのだろうか?と愚かささえ感じます。自然と共に生きる事、それは命を大事にすること。自然と共に生きる事がどんなに大事なのかを考えさせられました。
2つ目は、あるアイヌの女性の方の経験です。その女性は、幼少期にアイヌであるということで学校や近所でいじめを受けたりし、自分がアイヌであることを受け入れられずにいました。しかし、家族そしてアイヌの仲間の深い絆に結ばれた時、アイヌとして生きている私が本当の私であり、大切な私自身なのだと気付き、自分自身を受け入れられるようになったと言います。
 

この修養会を通して、私が感じたアイヌの人達の生き様とは、選んだ聖書箇所にある自分の存在をなによりの価値と認めて生きていくことでした。私は、アイヌの女性が感じていた気持ちと同じような思いを過去に抱いていました。私はかつて多くの不安と悩みを抱えていました。そんな弱い自分が嫌いで、自分自身を受け入れられずにいました。だけど、敬和に来てこの2年間を過ごし、様々な出会い、様々な出来事を通して、私は今、自分自身をだんだん受け入れつつあります。
アイヌの人達との出会いと敬和での日々を通して、私のなかに今日の聖書の言葉がスーっと入り込んできました。私たちは様々なことで日々思い悩んでいます。人との関わり、自分自身のことでも思い悩みます。しかし、確かに言えることは、強い仲間との絆のなかでこの命が生かされているということ。そして、自分自身がなによりも大切だということ。このことに気付くことができるのが、今回の修養会であり、大切な敬和での毎日だと思います。
 みなさんにとって自分自身とは何ですか?

3年 K.B 10月6日の学校礼拝原稿より
 

 

 
 

< 成長 >
 

 この礼拝のお話を何故彼が話すことになったのか?3年の先生方が、誰に修養会の話を頼むか?なんて話し合いをしている時、のッぴきならぬ事情でその場に居合わせた私は思わず口をはさんでしまったのです。「それは誰が一番この修養会に参加したかったかでしょう。」その場に居合わせた全員が一人の顔を思い浮かべました。思い浮かべた瞬間、私は後悔しました。そして全員が思ったことでしょう。ここは一発思い切って賭けてみるか、彼の成長に・・・。
 そうあの日、全校生徒の前に立って朝の礼拝の話を彼にさせるということは、ある意味賭けだったんです。その中でも一番不安に思っていたのは担任のK先生だったに違いません。
 前日、K先生の不安はストライク。お話はいつになってもできていません。放課後、呼んで指導してもできません。見かねた私は担任のK先生からバトンタッチしてもらい、寮で仕上げることにしました。
 「K!!できたか?」「まだです・・・。」「どこまでできた?」「全く・・・。」こりゃ大変です。もう数時間後にはあそこで話をしなくてはならないというのに、考えてないと言うんです。これは本気になってやらなきゃ大変なことになります。でも、頭の隅には結局彼のお話が仕上がらず、全校生徒の前でまごまごしているなんて面白い姿も見てみたいなんて思いにもなりましたが、それでは担任の先生から最後に私が怒られてしまいます。なんたって自分からバトンタッチしたわけですから。
 まず、はじめにやらなきゃいけないこと。彼の本気スイッチを入れることです。それを入れるには?長い付き合いになってしまった君たちと私です。それはよーく心得ております。叱ってはダメ、褒めるだけではダメ。とことん持ち上げてやること。これが彼のスイッチなわけです。しかも素直な彼は・・・じゃないです単純な彼はちょいと持ち上げてやるとすぐに入ります。
「まだ話できてないんか、さすがやな。でもお前のことやからエー話作るんやろうなあ、なんだかんだで、いっつもいい話するからなあ。」これでOK。この言葉だけで目を輝かせ「よーーーし」なんていきなりテンションMAXです。もはやただの単純さを通り過ぎ、「単純王」と名付けたくなります。その後は倫さんの大きな助けもありとんとん拍子で仕上がっていきます。やる気になった彼は何度も真剣にこういううことを伝えたいんだなんて言いながら、言葉を探しています。その姿を見て私は一安心。
 次の日の朝、出来上がった原稿を読んで私は感動すらしてしまいました。あの彼が、こんな話をつくれるなんて・・・これで完璧。
 ではなかったんです。私がチャペルに入るとすでに彼は前で座っていました。その時の様子は落ち着きのない小学生。おそらく緊張しまくりだったんでしょう。でも頼むからそこは我慢してジッとしておいて・・・。そんな事を心で願っていると礼拝は始まってしまいました。いよいよ講壇の前に立ちます。ウン!?妙に落ち着いているぞ?と思いきや、緊張を通りすぎ次は自分の世界に入っています。ただ前でこの原稿を読むだけでいいのに、原稿をもとに話そうとしています。案の定原稿にはあまり目を落とさず、変な間を作りながら、あれは完全に演技をしながら、全校生徒に語っていました。自分の世界に入りながら、自分に酔っています。ある意味大物・・・なんてヤツだ。でも、頼むから普通に読んでくれ。そんな願いは通じず、つい酔ったまんま終わりを迎えることとなりました。
 そして最後に倫さんと私は大きな落とし穴があることに気がついたのです。お祈りを考えさせる事を忘れていました。その日は献金日であったため少し時間があったんですが、最後まで考えきれなかったんでしょう。大役を果たしたため使い果たしたのか?最後のお祈りは、いいことを言おうとしたのか途中まではいい言葉を並べはしたけど、一体何が言いたいの?なんとも締りのない終わり方をしてしまいました。彼への指導に必要だったのは話し方の練習であったと今更ながら後悔しています。でも、話の内容は彼の成長を感じざるを得ない最高のものでした。 

(澤野)