自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2026/06/17
【聖書:創世記 3章 9節】
主なる神はアダムを呼ばれた「どこにいるのか」
【聖書:コリントの信徒への手紙 1章 13章 2節】
たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
しばらく沈黙の時間を持ちたいと思います。目を閉じて、沈黙から多くの「声」をきく時間です。チャペルの外から聞こえてくる声や自分自身の内で響いて聞こえる声、フェスティバルの余韻として残っている声、様々な「声」に耳を傾けてみてください。
(沈黙)
ありがとうございます。みなさん、おはようございます。
フェスティバルを通じて、皆さんから教えられて聴こえた「声」があります。それは、皆さんの内にある声 ― 悩みや葛藤、人に見せたくない部分 ― など、です。氷山の一角に例えるならば、水面下に隠れているもの、あるいは隠さざるを得なかったもの、そして他者との関わりの中で初めて気づかされる自分自身の暗い部分の「声」です。演劇を振り返ると、「自分」というものをテーマにしたものが多かったように思います。中には、人の心情を丁寧に描くものもありました。「自分とは何者なのか」「わたしは自分らしく生きているのだろうか」そのような問いと向き合いながら、自分自身を探し続ける「自分探し」をする一人ひとりの物語に出会いました。
第3代校長、榎本栄次先生が、「自分探し」を次のように言っています。
「自分探し」は、“人間性の回復”です。「自分探しというのは一人称で生きるということです。あの人が言うから、親が、先生が言うから、みんながするから、損だから、得だから…というのではなく、「私が」「わたし思考で生きる」ということ。」この姿勢をもって自分は生きているのだろうかと自分自身に問い続けることが自分探しだと言うのです。
他にも、総合チーフの言葉によって気づく「声」がありました。「今の自分がいるのはみなさんのおかげであり、本当はみんながこの舞台に立つべき存在だ」という趣旨の「声」です。本番だけでない、過程に見る生徒一人ひとりの「声」に気づかせてくれました。他者に気づく「声」です。自分中心になるのではなく、自分はいま、他者の存在によって生かされて、立っていられるのだということを教えられました。自分自身を見つめながらも、他者の存在に気づかされる「声」でした。
敬和学園のフェスティバルは、もっと言うならば、敬和学園の行事というのは、内に秘めていたものが他者によって、解放され、自由にされることで出会う自分の姿があります。フェスティバルで皆さんが描いたストーリーに私は、見事にのめりこみました。
そして、印象的だったこととして、物語がチャペルから始まり、チャペルで終わりました。
敬和生活そのもののようでした。敬和での一人ひとりの自分探しの旅というのは、このチャペルの礼拝から始まり、チャペルの礼拝で終わるからです。
フェスティバルの皆さんの姿から「自分の声」と「他者の声」を聴きました。その行われたはじめと終わりには、神の声を聴く時間 ― 神に導かれ、守られていることを再確認する ― その大切な礼拝をこのチャペルで行われました。チャペルは、敬和学園の建学の精神〈敬神愛人〉そのものです。
今日はあえて、チャペルを少し暗めにしてもらいました。なぜなら、天井から差し込む光を感じたかったからです。チャペルは「中心が天に向かって開かれた」設計になっています。神の言を聞き、祈り、神との交わりがなされる場所〈敬神〉の象徴だからです。
そして、チャペルの座席は、中心に向かう形で、全体の一体感を作り出す〈人と人の和=人を愛すること〉が表されています。共に生きる敬和生の互いの連帯感をまじまじと感じさせる造りになっています。敬和学園は、1日も欠かさず礼拝を守り、敬和生は毎日のように〈敬神愛人〉という敬和の精神をかみしめ、日々新たにされながら生かされています。チャペルの基本構想に深く関われた信田先生は、「チャペルを通して、私達の心が耕され、豊かにされ、神を敬い、人を愛する心が養われていくことを信じる」と語っています。
わたしが自覚的に初めて、人に受け入れられ、認められたと感じた場所が、このチャペルでした。1年生のとき、人前で自分自身のアイデンティティを明かす経験をしたのが、このチャペルです。敬和学園在学中、そして卒業後にも何度か話をする機会が与えられ、韓国人として日本で生きる「わたし」について話すことがありました。歴史的背景から現在軸つづきに起きている社会での差別と分断を直面しながら、立ちつくすわたしがいます。「わたしはどのように生きればよいのだろうか」と問い続ける、その内なる「声」が、他者によって聴かれたという経験でした。
この「きく」とは、耳偏の「聴く」を意味しています。耳に届くさまざまな音の中から、ある音に心を向け、その声に耳を傾けることを意味します。
耳偏の「聴く」という姿勢を持った関わりには、一人ひとりの内にある固有の存在や思いを引き出す力があります。わたしは、他者の「聴く」姿勢によって、自分自身が引き出され、新たな道へと歩み出すことができたと思っています。そのとき、神は確かにわたしたちと共にいてくださいました。豊かな出会いを通して、わたしは自分の内に秘められていた「声」と出会わされたのです。
敬和学園は、来年60回生を迎え、60周年を迎える時が近づいています。
「60」という数字は、人で例えると「還暦」になります。生まれ変わりの年です。敬和学園は、 “Blend With Ours Your Voices”という1967年にアメリカ国内用募金趣意書に書かれた呼びかけのように、多くの人の声が重なり合って誕生した学校です。第2代校長ジョン・モス先生は、「敬和の誕生は、人間の心と人間の出来事のうちに働かれる神の知恵と力―私たちの期待をはるかに超えて働かれる神の知恵の力の証です。神の導きの声に注意深く耳をかたむけつつ、これからも歩いて参りましょう」と呼びかけてくださっています。
今日読んでくださった聖書が2か所あります。「愛」の聖句と、人間一人ひとりに呼びかけられている「あなたはどこにいるのか」という神の呼びかけの声です。
愛の聖句は、57回生の学年聖句の一つであると同時に、1回生の入学式で敬和学園が聴いた「声」です。愛によって、愛の業が働き続けて今があることを教えられます。愛の内に生きるとき、私たちは自分自身を受け入れ、他者を受け入れ、共に生きることができます。
フェスティバルを通して、私たちは自分の声を聴き、他者の声を聴きました。そして今日、このチャペルで神の声に耳を傾けています。
しばしの間立ち止まり、私の現在地がそれていないか、どこにいるのか、神の声を沈黙から聴き、気づける者でありたいと願います。われらは「神の同労者」たらん。