毎日の礼拝

毎日のお話

2025/09/03

村田 茜(外国語科)

【聖書:詩編 128編 1-2節】

【都に上る歌。】いかに幸いなことか 主を畏れ、主の道に歩む人よ。あなたの手が労して得たものはすべて あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか いかに恵まれていることか。

 

 

 誰と一緒にやるのか、それとも、何をやるのか、どちらに重きを置くことが幸せか。大学時代の経験から、例え自分の好きな音楽でも、他の人にとっては何の価値もないものでも、そこに自分の大事な人が関わっているかどうかで、輝きや潤い、温度が変わるように思っていた。「人」が大事なのだ、と。ところが、この夏休みに関係性ゼロの人たちとの演奏に心が躍る経験をしたことで、長年の自分の主張に影響が及んだ。

 「誰」か「何を」か。今の私の答えは「どちらも幸せ」である。「この人と一緒で嬉しい」あるいは「これができて嬉しい」そう思える存在や経験が自分の人生にある、ということがもう素晴らしい。

 人生には良いことも悪いことも起きる。だが、あなたと一緒にやることに意味がある、とまで思えるような関係を誰かと作り上げるまでには、そのどちらでもない「何でもない日」の積み重ねが必要で、これをやってる時がもう幸せ、そう思える何かに出会いたいのなら「何でもないこと」を疎かにはできない。

 夏休みに部活の大会に出場した。ステージに立って演奏している時間はほんの数分だが、この輝く瞬間に繋がる汗と涙の練習の日々の多くを占めるのはおそらく「何でもない日」である。特別じゃないその「時」と、しっかり向き合って来た者にだけ見えるものがあるような気がしている。