自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
校長 小田中 肇
56回生の皆さん、ご入学おめでとうございます。私は皆さんが、三年後、中三のときの自分の選択は間違っていなかったと、自信をもって言えるような充実した学校生活を送って欲しいと願っています。そのために私たち教職員は皆さんを全力で支えたいと思います。
さて、先月、このチャペルにおいて第53回卒業祝福礼拝が行われました。その中で、卒業生代表の方が、次のような言葉を述べました。この方は、母親も敬和の卒業生で、寮生として神奈川県から入学された方です。
「自分は三年前、大きな期待をもって敬和学園に入学した。しかし、コロナのために思っていた高校生活を送ることができなかった。そのために、悩み、落ち込んでいた。その頃、母親から手紙が届いた。そこには、『置かれた場所で咲きなさい。』という言葉が紹介されていた。私は思った。自分が置かれた場所、この敬和学園で精一杯、花を咲かせよう、と。」
その後この卒業生は、誰もが認めるような見事な花を咲かせ、卒業しました。
自分探し
私たちは敬和学園を「自分探しの学校」と呼びます。皆さんが置かれた場所、この敬和学園で「自分探し」をしてください。神様があなたをここに招き、導いてくださっているからです。
私は数学の教員ですが、皆さんは中三のとき「三平方の定理」を習ったと思います。直角三角形の斜辺の長さを求める公式です。今から二千五百年前、この公式を発見した古代ギリシアの数学者は驚いたと思います。彼らは宇宙をコスモスとよび、この宇宙はシンプルで美しい数式によって表現できると考えました。
自分を発見すること。私たちの「自分探し」も、これと似ているかもしれません。あなたに発見されることを待っている、まだ見ぬ自分がいるからです。
新たな出会い
ところで、三年間のコロナ生活は、私たちに人と直接触れ合うことの大切さを教えてくれました。友だちと楽しく互いに笑うことが、どんなにありがたいことかを知りました。
今、敬和の庭に桜が満開です。私は就職してから30年以上、毎年、その花を見てきました。不思議にそれらは何度、見ても飽きることがありません。その年、その年、新たな訪れを感じさせてくれます。
数学の授業では毎年、一年生の四月に教える内容は、ほとんど変わっていません。「式の展開」、「因数分解」などが中心です。同じ内容ですから、教えることに飽きてもよい筈ですが、不思議と飽きません。それは授業を聞いてくれる生徒が毎年変わり、そこに新しい出会いがあるからです。
しかし、ネット配信される録画された授業の場合はどうでしょうか。たしかに便利な面がたくさんあります。コロナで学校が休校のとき、全国で活用されました。しかし、毎回、オンラインの授業ばかりでは、飽きてしまうのではないでしょうか。
では、対面授業と録画による授業の違いは、どこにあるのでしょう。対面の授業の場合、そこには二度と繰り返すことのない、一度限りの時間が流れています。生徒と教師、お互いの間には、多少の緊張感を伴いながら、共通の時間が流れています。それに対して、一方通行の情報だけが与え続けられると、私たち人間は、飽きてしまいます。
春に咲く花を毎年、見ても飽きないのは、その年、その年、新たな出会いと発見があるからです。人と対面で話して飽きないのは、相手の表情に、私たちは、絶えず、新しい命を感じるからです。その命は、時に、きらきら輝いています。
神の国
では、その輝きはどこから来るのでしょうか。今日の聖書には「神の国」という言葉が出てきます。「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなた方の間にあるのだ。』(ルカによる福音書17章20~21節 )
「あなた方の間に」という言葉が印象的です。「神の国」は、遠く空の彼方にあるのでも、人が死んでから行くようなところでもありません。それは、あなた方の間、つまり、人と人との関係の中、人と人、人と自然、その間に流れる「生き生きとした時間」の中にある、というのです。そこにこそ、私たちの生きる喜び、生きる意味が隠されている。そのように聖書は教えてくれます。
私たちにとって、ここ敬和学園こそが、共に三年間の高校生活を送る場所です。「神の国」はここにあるのです。
56回生の皆さん、そして保護者の皆さま、あらためてご入学おめでとうございます。皆さま、お一人お一人の歩みが、神様に祝福され、恵み豊かなものとなることを心よりお祈りいたします。