自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2025/05/01
【聖書:エフェソの信徒への手紙 4章 16節】
「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」
わたしたちにはそれぞれ、役割があります。一方的に不必要だと判断される存在があったとしても、大事な役割を担っています。そして、どの役割もバラバラな状態では生かされません。それぞれが「しっかり組み合わされ、結び合わされて」と強調されているのは、他と結びつく結び目があってこそ、役割を果たすことができるということでしょう。「自分だけ」から「自分も、あの人たちも」活かされる方向へ。現実は複雑で厳しく、言うは易く行うは難し、ですが、お互い、自分も他の様々な人たちと結びついている中でこそ活かされることに思いを巡らすこから始められたらと思います。
5月に入りました。この1か月、あっという間だったという人も、とにかく長かったという人も受け止め方はそれぞれだと思いますが、今日という日は後にも先にも今日だけなので、大切に過ごすことができたらと思います。
さて、先月21日にフランシスコ教皇が亡くなりました。前日のイースターには、たくさんの人々の前でイースターのお祝いの言葉を述べておられただけに、急で驚きました。フランシスコ教皇のことはニュースで見るぐらいでしたが、多くの場所に出向いて、マイノリティの方々と積極的に出会ったり、分断されている状況を憂いて、なんとかつなぐことはできないかと行動しておられたという印象があります。戦争や紛争が新たに起こってしまったこの数年は、特に心を痛めていたようです。この教皇という言葉、ラテン語ではSummus Pontifexというそうですが、Pontifexには「橋をつくる」という意味があるということを最近知りました。多分、教皇というのは、神と人との間だけでなく、人と人との間にも橋をつくる、橋をかける役割を担っている人、ということを言いたいのではないかと勝手に推測しています。
スライド1 橋をつくる、で思い浮かんだ絵本があります。昨年出会った絵本で『ちいさなしまのだいもんだい』。こんなお話です。
昔あるところに、動物村がありました。羊、馬、牛、豚、あひる、がちょうたちが、それぞれ好きな所に家を建て、得意な仕事を受け持って、助け合いながら暮らしていました。たまに、もめごとも起こりましたが、いろんな動物がいれば、それは当たり前。完璧ではないけれど、みんなおおむね満足していました。
動物たちのうち、あひるやがちょうが住んでいるのは、村のはずれの小さな島でした。ある時、一羽のがちょうが文句を言い始めます。「ここは僕らの島なのに、どうして羊や豚がいつもうろちょろしているんだい?」「そのうち、僕らが島から追い出されてしまうんじゃないか!?」。
スライド2 がちょうたちは会議を開き、自分たちだけで暮らすことにしました。あひるは、反対しましたが、意見は通りませんでした。次の朝、がちょうたちは、橋を壊してしまいました。はじめは、いいことばかりでした。ところが、他の動物たちがいなくなったことで、いろいろな問題が起こります。次の年は、もっとつらくなり、その次の年はもっとみじめになり、その次の年に、きつねが動物村にやってきました。島に上陸したきつねたちから逃げまどうがちょうやあひるたちを助けてくれたのは、向こう岸の動物たちでした。大声で鳴き、騒ぎ立ててくれたのです。
スライド3 翌朝、がちょうたちは、橋をつくり始めます。完璧ではないけれど、にぎやかな動物村が戻ってきました。
こんなお話です。この絵本は、イギリスがEUを離脱する前の2019年につくられています。この絵本の作家は、あひるのようにイギリスがEUに残留することを望みつつ、でも離脱を望むがちょうの気持ちもくみつつ、物語を書いたのではないかと思います。イギリスとEUでなくても、自分の身近で相容れない、自分とは違う人たちとどう一緒にやっていったらいいのか、悩むことって、結構あるのではないでしょうか。ぱっと話が合う人とは本当にやりやすい。できればそういう人たちとだけ一緒にいられればどんなに楽か。物事も効率的に進めやすい。ただ同時に、思いがけない発見や、広がり、深さには至らないと感じることもあります。また、仲間内にこもりたくても、そうはいかない現状もあるでしょう。絵本の動物村はもめごとがあるし、完璧ではありません。でも、違う存在を排除しても、もめごとがない、完璧な世界にはなりませんし、新たな問題が立ち上がる可能性があることも教えてくれています。
先ほど、刈屋さんに読んでいただいた聖書の言葉は、教会という共同体に向けて書かれてはいますが、わたしたちが属している様々な共同体にも通じるところがあると思います。わたしたちにはそれぞれ、役割があります。一方的に不必要だと判断される存在があったとしても、大事な役割を担っています。そして、どの役割もバラバラな状態では生かされません。それぞれが「しっかり組み合わされ、結び合わされて」と強調されているのは、他と結びつく結び目があってこそ、役割を果たすことができるということだと思います。「自分だけ」から「自分も、あの人たちも」活かされる方向へ。そうはいってもねぇ、現実は複雑で厳しくて、言うは易く行うは難し、ですが、わたしも皆さんも、他の様々な人たちと結びついている中でこそ自分も活かされることに、思いを巡らすことから始められたらと思います。
お祈りは献金の後でささげます。
神さま、新しい朝をありがとうございます。5月に入りました。今日ここに集っているわたしたち、そして集うことのかなわない仲間たちの今日一日の歩みを守ってください。ミャンマーで地震から1か月が経ちました。内戦から逃れた先で地震にあい、どう生活を建て直したらよいのかわからない状態が続いています。停戦し、人々の命と生活を守るために、すべての力を注ぐことができますよう、決断に必要な勇気と知恵をお与えください。今献金をささげました。支援を必要とする方々への支援の一部としてお用いください。