自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2025/02/17
【聖書:ヨハネの黙示録 19章 16節】
この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されている。
今年も、先週、金曜日からハレルヤの練習が始まりました。
先週、生徒会長からは、ハレルヤを歌う意義について、すばらしい説明がありました。
全校で歌うこの大合唱には、誰もが感動します。
2年前、テレビ番組(NST「ガタ・チューブ」)でも紹介されました。
今もYou-tubeで見ることができるので、見ていない人は、ぜひ見てください。
ところで、いつ頃から、敬和でハレルヤを歌うことが定着したのでしょうか。
以前、ハレルヤ合唱をやめて、もう少し簡単な歌に変えることを学校側が提案したことがあります。
私は、今もおぼえていますが、そのとき卒業する学年の代表生徒が、礼拝の後、全校に自分たちをハレルヤで送って欲しい、と訴えました。
自分たちが2年生のとき、一生懸命ハレルヤを練習して、3年生をハレルヤで送った。
自分たちも後輩にハレルヤで送って欲しい、と訴えたのです。
当時の生徒会はその願いを聞き入れ、ハレルヤを歌うことが決まりました。
それ以来、敬和では卒業生をハレルヤで送ることが伝統になったように思います。
皆さんは入学した時、ウェルカムデーで先輩たちの歌う歓迎のハレルヤ合唱を聞いたと思います。
先輩たちの歌声に圧倒されたのではないでしょうか。
今年も4月には、ぜひ、ハレルヤ合唱で新入生(58回生)を迎えてください。
このように敬和生は、ハレルヤ合唱で先輩たちに迎えられ、ハレルヤ合唱で後輩たちに送られるのです。
さて、ハレルヤ合唱の中で私が、特に好きなのは、最後の方で、King of Kings, and Lord of Lordsと歌う場面です。
ベースから始まった歌が、順に他のパートに広がり、最後、至って、全体が一つになる瞬間は、みんなの歌声がチャペルの天井を超えて、天に届くようです。
この King of Kings, and Lord of Lordsという歌詞は今日の聖書からの引用です。「王の王、主の主」と訳されています。
もちろん、この「王の王」とはイエス・キリストを指しています。
キリストこそが、「王の王、主の主」と高らかに宣言するのです。
しかし、イエスを王と表現することに少し違和感を覚えました。
なぜなら、イエスの生涯は、王様のような権力とは無関係なものだったからです。
では、この「王の王、主の主」という言葉には、どのような意味が込められているのでしょうか。
そのためには、この「ヨハネの黙示録」が書かれた時代背景を知る必要があります。
「ヨハネの黙示録」は、今から2000年前の西暦80年頃、パトモス島に流されたヨハネという人物によって書かれた、と言われます。
その頃、キリスト教は、まだ誕生したばかりでした。
当時、世界はローマ帝国によって支配されていましたが、キリスト教はひどい差別を受けていました。
それにはいくつか理由があります。
キリスト教が貧しい人々や、奴隷など、社会的に弱い立場の人々の宗教だったことです。
またキリスト教は生まれたばかりの宗教で、歴史や伝統がありませんでした。
そのため教会や礼拝堂などの施設もなく、個人の家庭で礼拝を守り、共に食卓を囲んでいました。
それが他の人たちには何か、いかがわしい宗教団体に思われたのです。
さらに決定的なのは、キリスト教徒は、ローマの神々やローマ皇帝を、神として敬おうとしませんでした。
そのため当局からも、危険視され、にらまれていたのです。
また西暦68年にはローマで大火がありました。
当時の皇帝ネロは、それをキリスト教徒のせいにしました。
キリスト教徒が放火したため、その火事が起きたというのです。
多くのキリスト者が無実の罪で犠牲になりました。
このような厳しい状況の中で、当時のキリスト者は神を信じることの意味を問い続けました。
ヨハネによる黙示録は、このような状況にあるキリスト教徒に宛てて書かれた手紙だったのです。
その内容は次のようなものです。
「今、強大な権力をもつローマ帝国も永遠には続かない。神によって滅ぼされる時がくる。
あなた方はキリストへの信仰を守りなさい。ローマ皇帝とその権力を恐れてはいけない。
なぜならイエス・キリストこそが、王の王、主の主なのだから…」
このようなメッセージです。
ところで、このようにキリスト者が迫害されたのは、2000年前の遠い国の出来事に限ったことではありません。
日本でも江戸時代、キリスト教は徳川幕府によって禁じられました。
キリスト者であることが分かると、信仰を捨てるか、そうでなければ磔(はりつけ)にされました。
取り調べのためには「踏み絵」という巧妙な方法が用いられました。
「踏み絵」とは、キリストやマリア様を刻んだ銅版を踏ませるものです。
それを踏めない人は、キリシタンとして捕えられました。
このような方法によって、徳川幕府はキリスト教を徹底的に弾圧したのです。
明治以降も、15年戦争と言われる1931年から1945年、日本が軍国主義に支配された時代にも、キリスト教は政府によってさまざまな制限が加えられました。
今、日本では憲法によって「思想および良心の自由」が保証されています。
「思想および良心」という、その人らしさを形作る核となるもの、人格の中心にあるものは、いかなる権力によっても壊されたり、否定されてはいけないからです。
それはいつの時代も、あらゆる力から守られ、決して侵されてならないものとして、尊重され続けなければなりません。
キリストこそが「王の王・主の主」という、ハレルヤ合唱の歌詞は、時代を超えて、この「思想および良心の自由」と関係し、今も重要な意味を持っているのです。
それでは、今年も素晴らしいハレルヤ合唱を全校で作りあげてください。
今朝の敬和