お知らせ

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2025/02/03

今週の校長の話(2025.2.3) 「利他について」

【聖書:マタイによる福音書 5章 40-41節】

あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。あなたを徴用して1ミリオン行けと命じる者がいれば、一緒に2ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。

 

 

コロナによる制限が解除されて丸2年になろうとしています。

学校にはコロナ前の活気がもどり、様々な制限が加えられたあの頃が遠い昔のことにように感じられます。

あの3年間は何だったのだろうと考えることがあります。

 

まず忘れていけないことは、世界中で多くの尊い命が失われたことです。

この5年間のコロナによる死者数は、世界で700万人を超えました。

その意味で、100年に一度の世界的パンデミックでした。

学校にも多くの制限が加えられました。

「3密」を避けることが求められましたが、人とのかかわりを大切にする敬和学園にとってそれは厳しい状況でした。

コロナにより人々は多くの大切なものを失いました。

 

しかし、コロナによって得たものもあったはずです。

私は大きく2つあったと思います。

1つは、日常の大切さに人々が気付いたことです。

それまで、当たり前だった日常が、失われてみてその大切さに気付かされました。

皆さんも、当たり前に学校に行くこと、友達と会って一緒に笑い、楽しくすごすことがどんなに尊いことか、そのことに気付かされたはずです。

 

2つ目は、人は自分の力だけでは生きられない、ということです。

利己主義という言葉を聞いたことがあると思います。

自分に利益があればよい、自分さえよければよい、という考えです。

利己の反対語を知っているでしょうか。

「利他」です。

コロナによって、利他の大切さに多くの人が気づきました。

 

「エッセンシャルワーカー」という、それまであまり耳にしない言葉をあの頃よく聞きました。

医療従事者やその他、人々が生活して行くためには、なくてはならない仕事に従事する人たちのことです。

コロナ感染のリスクがあっても、エッセンシャルワーカーの方々は、仕事を休むことなく、働きました。

彼らのおかげで私たちの生活が支えられました。

利他の精神が、彼らの使命感を支えたのだと思います。

 

あの頃、私たちは皆、マスクをしました。

マスクをする意味が、コロナ以前と変化したことに気づいたでしょうか。

それまで、マスクをするのは、自分が感染しないように自分を守るためでした。

しかし、コロナのときは、人に感染を拡げないために皆がマスクをしました。

つまり、利己ではなく、利他のためにマスクをしたのです。

 

クラウドファンディングという言葉を聞いたことがあると思います。

何か社会のためになることに、人々がお金を出して協力することです。

コロナ後に、クラウドファンディング事業が拡がったといわれます。

 

コロナ前、人々は自分の利益を追求することが求められ、その結果がどのようなものであっても、それは自己責任とされました。

そのような生き方に、多くの人は追いつめられていました。

しかし、コロナを経て人々は社会を支えるために必要なのは、利他の精神であることに気づき始めたのです。

 

政治学者の中島岳志さんという方が、利他について面白いことを書いていたので紹介します。(「利他とは何か」集英社新書)

「わらしべ長者」という日本の昔話があります。

昔、ある村に両親を亡くした孤独な青年がいました。

青年はどんなに頑張っても貧しさから抜け出せません。

あるとき観音様にお願いします。

「私はこのまま貧乏で終わるならばここで餓死します。何か与えてくれるなら、夢に出て知らせてください。」

すると、その夜、夢にお坊さんが出てきて、最初に手に触れたものを捨ててはいけない、と告げます。

青年は目が覚め寺を出ます。山門でつまずいて転んでしまいます。

そのとき、ぱっと手にしたのが一本の藁(わら)でした。

青年がその藁をもって歩いていると、自分の周りにアブが飛びまわってうるさいので、捕まえて、藁にくくりつけます。

そして、アブのついた藁をぶんぶん振り回して歩いて行きます。

すると、道の向こうから子供を連れたお母さんがやってきます。

すれ違う時、子供が「あれ欲しい」と言います。

アブのついた藁を、お母さんにせがんだのです。

青年はそれをあっさり、あげてしまいます。

そのお礼にお母さんはミカンを3個くれます。

 

今度は息絶え絶えになった人が、水が欲しいといってやってきます。

青年はミカンをあげます。

そのお礼に食事と反物をもらいます。

こうした交換を繰り返し、青年はお金持ちになった、というお話です。

 

中島さんが注目するのは、青年がわらしべを最初にすれ違った子どもに与えてしまう場面です。

そのとき、青年はお礼にミカンをもらえると思っていない。

見返りを考えず、思わず大切なものを子供に与えてしまう。このことがこの昔話の重要なポイントだと言います。

 

ドイツ語のギフト(Gift)という言葉には2つの意味があります。

一つは「贈り物」、もう一つは「毒」という意味です。

贈り物は、場合によっては、相手にとって毒にもなりうる、という昔の人の経験知がそこにあるのかもしれません。

一方的な贈り物は、場合によっては、相手を精神的に支配し、そこに権力が発生し、相手にとって毒にもなりうるからです。

贈り物とは、単純なものではありません。

 

わらしべ長者の青年が、思わず、子どもに、わらしべをあげたとき、そこには裏がない。毒もない。

純粋な利他の精神が青年を動かしました。

それが大事だというのです。

皆さんはどう考えるでしょうか。

 

今日の聖書です。

下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。あなたを徴用して1ミリオン行けと命じる者がいれば、一緒に2ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。

 

イエスは私たちに、相手が望む以上のものを与えなさい、と命じます。

イエスの生涯を思うとき、それは、まさに人に与え、自分自身をささげつくした生涯でした。

イエスは、見返りを求めて何かしたのではありません。

困っている人を見た時、思わず助けたのだと思います。

そこには、純粋な利他の精神が働いていたのです。

 

敬和には労作の授業があります。

労作教育には、困っている人がいれば相手のために身体を動かせるような人になって欲しい、という願いが込められています。

困っている人のために、見返りを求めず自然に身体を動かすことができる人です。

私たちも今日の一日、互いに利他の精神をもって共に歩むものでありたいと願います。

 

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今朝の敬和