自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2025/01/28
【聖書:コリントの信徒への手紙二 4章 18節】
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
谷川俊太郎さんの作品、「朝のリレー」が好きだ。「カムチャツカの若者がきりんの夢を見ている時、メキシコの娘は朝もやの中でバスを待っている。ニューヨークの少女がほほえみながら寝がえりをうつ時、ローマの少年は柱頭を染める朝陽にウインクする。この地球ではいつもどこかで朝が始まっている。僕らは朝をリレーするのだ。経度から経度へと。そうしていわば交替で地球を守る。眠る前のひととき耳をすますと、どこか遠くで目覚まし時計のベルが鳴ってる。それはあなたの送った朝を誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ。」何ものも、タイミングや場所、形に捉われすぎる必要はなく、例え失敗したように感じても立ち上がるチャンス、つまり始まりの朝は何度でも訪れる、と言ってもらえているような気持ちになる。
目に見えないものとは、「こうあるべき」を当たり前だと思い込み、疑うことすらしない私たちが見過ごしていることを指すのかな、と考えた。目に見えないものには、居心地の悪い枠組みは解くことができるよ、と私たちに知らせる力があるのかもしれない。もう一つ、目に見えないものは神さまのことだろうな、と思う。もともと見えないのだから、私たちの側からいなくなってしまうことはないし、見捨てられたのではと嘆きたくなる日が来たとしてもそれは自分が、また勝手に当たり前の形を決めているからなのだと思う。
卒業していく55回生には「こうあるべき」だけではなくて「こうありたい」を真ん中に置いて生きてほしい。いつでも、どこでも、どんな形でも大丈夫。少なくとも、ここ敬和には明かりが灯り続ける。55回生が敬和で送った3年間を56回生、57回生が今、しっかりと受け止めようとしているから。