自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2025/01/27
【聖書:マルコによる福音書 3章 32-35節】
大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「ご覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
3年生の卒業の時が近づいてきました。
3年生は今週、木曜日から自宅学習期間にはいります。
1,2年生の皆さんは、思いを新たにして、これから世代交代の準備に取り組んで欲しいと思います。
さて、皆さんは、「偶然」という言葉を知っていると思います。その反対語は「必然」です。
私は数学教師ですが、数学というと、偶然よりも必然的なことを学ぶ教科のように思いがちです。
例えば、1 + 1 = 2 、 ここに偶然の入る余地はありません。
ところが数学には「偶然」を扱う分野があります。
「確率」です。
中学2年、高校では数学Aで学習します。
例えば、コインを投げて表・裏の出る確率は、それぞれ2分の1と習ったと思います。
ところで確率2分の1と解っても、実際にコインを投げて表・裏を当てることはできません。
その都度、どちらが出るかは、投げてみなければわかりません。
では確率とは何かというと、実際、コインを投げて表・裏のでる回数を数えると回数を千回、1万回とふやしてゆくにつれて、限りなく確率が2分の1に近づくという実験結果に基づいているのです。
だから確率2分の1とわかっていても、それは理論上のことであって、次ぎに何が出るか当てることはできません。
では、確率は何のために学ぶのでしょうか。
それは、一見、無秩序と思える現象のなかに、法則性、必然性を発見するためです。
そのような法則性を発見することが数学を含め、多くの学問の目的です。
さて、以前、新聞に、「親ガチャという不平等」という特集が載っていました。私は、何だろうと思って読んでみました。
ガチャとは、100円玉を入れて、レバーを回すと、カプセルに入ったオモチャが出てくる、ガチャガチャとかガチャポンといわれるものです。
「親ガチャ」とは、ガチャポンのように偶然決まる親次第で、自分の人生も決まってしまう。そんな人生観を表す言葉です。
この言葉を巡っては、若者世代と40代以上の親世代とで意見が分かれると言います。
親世代は、若者に「自分の努力不足を親のせいにするな、」と言います。
それに対して若者は、「何も分かっていない」と反発します。
子供は、別に親を非難するつもりで言っているのではない、というのです。
クジにハズレたからといって、クジそのものを責める人はいません。
それと同じように、親を責めているのではなく、自分には運がなかったと言ってるだけだ、というのです。
しかし、親運がなかったと子供に言われれば、親は悲しくなるに決まっています。
皆さんは、この言葉を、どのように感じるでしょうか。なかなか難しい問題です。
人は自分の親を選んで生まれて来るわけではありません。
自分の親が、自分の親であるのはたしかに偶然です。
しかし、本当にそれだけでしょうか。
もし、人生すべてが、このように、偶然だけで決まってしまうとすれば、そこに生きる意味や目的を見出すことができるのでしょうか。
今日の聖書では、イエスが、自分の家族について、びっくりするようなことを言っています。
ある時、弟子たちがイエスに言います。「母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」。
それに対してイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と問い返します。
そして、「あの方々は、自分の親でも兄弟姉妹でもない、自分の本当の家族とは、御心(みこころ)を行う者のことだ」と答えるのです。
誰が聞いても、これは家族に冷たい言葉に聞こえます。イエスの真意はどこにあるのでしょうか。
イエスの生きた時代は古代王朝が支配し、そこでは血のつながりが重要でした。
しかし、イエスはそれだけでは本当の家族にはなれないと言うのです。
つまり、血のつながりという偶然によって生まれた関係は、それだけでは、本当の家族といえない。
そのままでは、親は親ではないし、子も子ではない、というのです。
では、どうすれば本当の家族になれるのでしょうか。
家族とは、共にさまざまな経験をすることをとおして、初めて、親は親に、子は子になるのです。
互いを思いやる心と忍耐をもって生活することによって、親子は少しずつ家族になります。
つまり、たまたま親子になった者が、お互いの愛によって、互いに大切な存在に変えられること、それこそがイエスの言う「御心を行うこと」です。
それはまた、偶然の出会いが、「運命」に変えられること、ともいえます。
運命とは、「自分はこの親でよかった、この親でなければだめだ、」心から、そう思えるようになることです。
イエスは、親子関係を「あの方々は自分の家族ではない、」と言って、いったん関係を切ります。
しかし、その関係を再び、結び合わせる道を私たちに示してくれているのです。
私たちの人生は、家族以外にも、たくさんの出会いから成り立っています。
たまたま出会うことのできた関係を、かけがえのないもの、運命へと変えて行くこと、それこそが私たちの人生の意味です。
敬和で過ごす3年間、今、ここで、めぐりあった人との関係が、それぞれにとって、かけがえのないものへと変えられるように、残りの敬和生活を送って欲しいと思います。
今朝の敬和