自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2025/01/09NEW!
【聖書:フィリピの信徒への手紙 3章 13‐14節】
兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
パウロは獄中でもどこにあっても、するべきことはたった一つだと書きいている。13節に「後ろのものを忘れ」とあるが、パウロは過去のことを忘れているわけではなく、手紙の中で自分自身の過去を振り返っている。ただ、復活のイエスとの出会いによって180度生き方が変わったパウロにとって、自身の過去は黒歴史そのものだった。自分にとって有利だと思っていたことが、実は自分自身を縛り上げていたことに気づいてしまったからだ。しかし、その黒歴史にとらわれないようわきに置いた上で、目の前の、今自分が向き合っていることに取り組み続けることをすすめる。パウロが目指す目標はこの地上で生きている間に彼の努力だけで達成できるものではない。だから、いつも未完了だし、進行形だといえる。途中、途中で小さな目標をたてて、それをクリアしていくことを励みにしつつも、完結しない。ああ、もうすべてわかったからいいや、でもなければ、もう終わったも同然だから、あきらめよう、でもない。3年生の皆さんは卒業を控えているが、卒業は高校生活が完結することであると同時に、次の人生のステージの始まりでもある。卒業も未完了だし、進行形だ。先日、能登でボランティアのコーディネートをする方々の話を聞いた。被害の大きさと復旧や復興の遅さに苦しくなりながらも、少しずつ、半歩ずつでも進んでいく、また支援し続ける人々の姿を知った。もうだめだ、やめようという完結させたい思いを、それでも何かできるかもしれないと考える。新しいこと、新しい出会いを恐れない。そこにはいつも未完了、進行形の時間が流れている。
先がどうなるか全くわからない時ほど、わたしたちは不安になるので、どこかに完結させようとし、時間をコントロールして、かかわりを断ち切ろうとする。時にはそれも必要だろう。けれども、次々と何かを達成すること以上に、未完了であること、進行形であること、求め続けるという時間をもっと大切に、慈しんでもいいのではないだろうか。