お知らせ

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2024/12/09

今週の校長の話(2024.12.9) 「光のアドベント」

【聖書:ヨハネによる福音書 1章 4節】

「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」

 

 

賛美歌発表会の練習が始まり、教室から賛美歌が聞こえてくるようになりました。

賛美歌の歌声が響いてくると、クリスマスの近いことを実感します。

キリスト教会では、先週、アドベントに入り、今日は2本目のろうそくが灯されました。

先週、灯された1本目のろうそくは「希望」意味しましたが、2本目は「平和」を意味します。

希望と平和への思いをもって、この1週間を過ごしたいと思います。

 

主イエス・キリストの誕生は「光の訪れ」ともよばれます。

聖書には「初めに言(ことば)があった。その言の内には命があり、命は人間を照らす光であった。」と言われます。

この初めにあった「言(ことば)」そして「光」とはイエス・キリストのことです。

 

先月、谷川俊太郎さんという詩人が92歳でお亡くなりになりました。

谷川さんの詩は小学校や中学校の国語の教科書にも載っているので、皆さんも読んだことがあると思います。

また翻訳家として海外の絵本、「スイミー」やアメリカの漫画「スヌーピー」など数多くの作品を翻訳されています。

私の世代なら、アニメ鉄腕アトムの主題歌の作詞者としても親しみをおぼえます。

 

谷川さんの書いた詩に「光」という作品があります。

谷川さんはクリスチャンではありませんが、聖書のメッセージにも通じる詩を書かれています。

詩の内容は、私たちは光のあるおかげでものを見ることができる、ただそれだけのことを歌っている詩なのですが、あらためて教えられたことがあります。

 

詩の一部を引用します。

「私が光を見ることができるのは、それは私の眼のおかげではない、それは光のおかげだ。」

私たちにも、今、チャペルでいろいろな物が見えています。

自分の手、聖書、前に座っている人の後ろ姿、それらが見えるのはすべて光があるからです。

光がなければ、どんなに眼がよい人でも暗くて何も見ることはできません。

人が物を見るメカニズムは次のとおりです。

まず光が、ものに当たって反射します。

その反射した光の微妙な違いを眼が感知して、脳がその情報を映像としてイメージします。それによってモノが見えるのです。

ですから、私たちが見ているのは、モノそのものというより、光を見ているのです。

 

昼間、私たちは光の中に生活しています。

しかし、光を意識することはありません。

例えば、授業中に光を意識するのは、教室で太陽光線がまぶしくて黒板の文字が読みにくい時くらいです。

その時は、カーテンを閉めて光をさえぎります。

普段、ものを見ることができるのは、自分の眼のおかげだと、私たちは思っています。

しかし、本当は光のおかげなのです。

谷川さんは次のように続けます。

 

「光は私の眼のためにあるのではない。私の眼が光のためにあるのです。」

 

たしかに言われてみればそのとおりです。

光は、私たちの眼のために創られたのではありません。

光は人類の生まれる、はるか昔、宇宙の誕生とともに生まれたと言われます。

私たち人間の眼の方は、光の微妙な違いを認識するために、生物として何十万年かけて進化した結果、ようやく獲得された能力の一つにすぎません。

 

ところで、この光と眼の関係は、私たちの生き方についても大切なことを教えてくれます。

私がモノを見ることができるのは、私の眼のおかげではなく、それは光のおかげだ、ということ。

これは、私たちは、自分ひとりの能力によって生きていると思いがちだが、それは違う、というのです。

私たちが、自分ひとりの力でやれていると思うことも、それを可能にしてくれる自分以外の力の働きがあって、初めてできているのです。

それは、空気や水、光などの自然やさまざまな生き物の働き、また自分を支えてくれる多くの人たち、そして目には見えないけれども、私たちの命を深いところで支えてくれている存在。

キリスト教ではそれを「神の愛」とよびます。

 

キリスト教は「愛」の宗教と言われます。聖書にも、愛という言葉がたくさん出てきます。

イエスは、弟子たちを友と呼び、互いに愛し合うように教えました。

私たちは昼間、光に包まれて生活しています。それと同じように、私たちは、神様の愛に包まれて生活しています。

この愛の働きによって、私たちは生かされ様々な場面で助けられているのです。

光がなければ何も見えないように、この愛がなければ人は本当の意味で生きることができません。

しかし、そのことに気づかず、自分の力だけで生きていると思いがちです。

それは幼い子供が親の愛に気づかず、自分の力だけで生きていると思うのと同じです。

谷川さんの詩はそのことを私たちに教えてくれます。

 

イエスは、私たちに互いに愛し合うように教えました。

それは、イエスご自身がそうであったように、愛されるだけの受け身の存在から、神様の愛に支えられ、自らも他者を愛する者へと変えられること、そのための新しい一歩を踏み出すことです。

谷川さんは「光は私の眼のためにあるのではない。私の眼が光のためにあるのです。」と言いました。

この言葉は、次のように言い換えることができると思います。

「愛は私の心のためにあるのではない。私の心が愛のためにあるのです。」

私たちの心は、愛されるためではなく、人を愛するためにあるのです。

クリスマスを待ち望む今、チャペルのこの静かな光に包まれて、私たちもキリストの愛をおぼえ、今日の一日、それぞれ希望のうちに歩む者でありたいと願います。

 

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今朝の敬和