自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2024/11/28NEW!
【聖書:マルコによる福音書 7章 24節-30節】
イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。
汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
新約聖書の福音書にはイエスの様々な活動が記されています。イエスが活動したのはガリラヤ地方でした。この地方はイエスの生まれた場所でもあります。聖書はこの地方に住む人たちのたちのことを「飼い主のいない羊のような有様」だったと記しています。政治、宗教による圧迫、貧困、差別がこの地に住む人たちを苦しめていたのです。イエスは大工としてガリラヤ地方を歩きながら、人々の苦しみを日常的に見ながら過ごしていました。イエスは、これらの苦しみから人々を解放するために活動していたのです。今日の聖書の箇所にはイエスがティルス地方にいたということが記されています。ガリラヤではイエスは有名になっていました。日常的に人々がイエスのところにやってきていたのです。イエスは自分を知る人の少ないティルス地方で休息をとりたかったのかもしれません。しかし、この地方にもイエスの噂が響き渡っていたのでした。イエスが休んでいた家にある女性がやってきました。イエスはユダヤ人です。日常的にユダヤ人は外国人と接することに気を使いながら生活していました。外国人はユダヤの掟を知らず、それを守らないので穢れた存在と考えてられていたのです。女性はシリア・フェニキアの生まれだったとあります。この女性はイエスから見れば外国人でした。女性はユダヤ人が自分たちのことをどのように考えているのか、ということを知っていたと思います。しかし、この女性はそんなことを気にも留めず、ただイエスに自分の娘の病を治してほしいという思いでやってきたのです。女性の娘には悪霊が取り憑いていたと聖書には記されています。この時代、何らかの病気を抱えている人たちは、悪霊の仕業によるものと考えられていました。女性は、苦しむ娘を見つめながらイエスならなんとか悪霊を追い出してくれるのではないか、と考えたのです。イエスは女性の言葉に反応します。しかし、イエスの言葉は彼女の望むような言葉ではなく、非常に冷酷にも感じられるような言葉でした。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」(7・27)。あなたが望むようなことを今はできないとイエスは言っているのです。真面目なユダヤ教の正統派がいう言葉なら理解できます。彼らは外国人と付き合うことに気を使うためです。しかし、イエスがこの言葉を語ってしまったのには驚かされます。イエスに対する女性の言葉は反論の言葉です。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。(7・28)」と。少しわかりづらいやり取りです。イエスがここで語った「子供たち」とは「ユダヤ人」のこと。「小犬」とは「外国人」のことです。パンとは「救い」、あるいは「休息」と置き換えることもできます。ここでイエスは、まず、救われなければならないのはユダヤ人である、と言うのです。「飼い主のいない羊のような有様」で歩んでいるユダヤ人がいるにも関わらず、それより前に外国人の救いを語ることなど出来ないと語ってしまったのです。キリスト教はイエスを神の子と告白するのですが、イエスは同時に普通の人間でもあるのです。彼もまたその時代の影響を受け、その時代の価値観を背負いながら生きる人間でもあったのです。しかし、イエスはこの女性の言葉に心を揺さぶられます。そしてこの女性に対して家に戻るようにと促したのです。聖書はこの娘から悪霊が出ていったと報告しています。イエスはこの時、自分が気づかずに背負っていたユダヤ人であるということの問題性に気付かされたのです。そして、気付いただけではなく、その言葉を柔軟に受け止め、方向転換をしようとしたのです。新しいことに気づかされ、それを受け止めること、そして方向転換をするということは非常に難しいことであり勇気のいることです。しかし、イエスはそうすることが出来る柔軟な感性、寛容さを持った人間だったのです。言葉を受け流すような人間ではなく、その人間の言葉に真剣に立ち止まることができる人間だったのです。
わたしたちは、自分の経験や出会いによって自分自身を成長させ自分自身を形成していくのですが、成長によって失われていくものがあることにも気づかなくてはなりません。柔軟な感性、他者に対する寛容性です。自分自身を形成していくことは大事な作業です。しかし、同時に自分自身を絶対的な存在としてとらえ、自分以外の他者の言葉に耳を傾けることができなくなってしまうということもあるのではないでしょうか。
ずいぶん前に『リベラル保守宣言』という本を読みました。かなり影響を受けた本です。本の中に以下の言葉が記されていました。「時間、空間に縛られた有限の人間には、無限の真理を完全に掌握することなどできません。我々が知り得るのは、『真理の影』であって。真理そのものではありません。真理は常に地平の向こうに存在するのです」。人間イエスもまた様々な経験や出会いによって自分を形成していきました。大勢の人々も自分の周りに集まるようになりました。活動への自信もついてきたと思います。しかし、彼は自分を絶対化するようなことはなかったのです。イエスはこんな言葉を語っています。「なぜわたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善いものはだれもいない」(マルコ10・17)。イエスは自分の不完全性を冷静に見つめる目を持つことができる人間だったのです。わたしたちが生きている世界は、人間が不完全な存在であるということが忘れられてしまっているのではないでしょうか。自分を絶対化し、相手の言葉に耳を傾けることができなくなっているために平和が脅かされているのではないでしょうか。
イエスは「幸い、平和をなす者」(マタイ5・9)と言います。「我々が知り得るのは、『真理の影』であって。真理そのものではありません。真理は常に地平の向こうに存在するのです」。わたしたちは「真理の影」しか知ることができないという謙虚さを持ちながら歩んでいきたいと思うのです。その謙虚さがわたし以外の他者と共に生きることを促し、平和を作りだすことにつながっていくのです。