自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2024/10/31
【聖書:ガラテヤの信徒への手紙 2章 16節】
「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」
毎朝礼拝で開く聖書は、長い年月をかけてわたしたちのもとに届いたものです。最も古い部分は3000年も前に記されました。多くの人々の手によって書き写され、様々な言語に翻訳されるようになっていきました。19世紀に入ると聖書の言語数が飛躍的に増えてきました。世界に向かっていった宣教師たちがそれぞれの国でキリスト教を伝えるために翻訳作業を行ったからです。
日本のキリスト教の歴史にはフランシスコザビエルという人が登場します。1954年に鹿児島にこの人がやってきた時には、すでに日本語に訳された聖書を持ってきていたそうです。その後1837年に日本語に聖書が訳されます。さらに1880年に新約聖書が刊行され、1887年に旧約聖書が出版されます。そして戦争が終わったのち、さまざまな日本語訳聖書が生み出されました。毎朝礼拝で開いている聖書は1987年に生まれたものです。「新共同訳聖書」という名前で記されています。日本聖書協会という団体が刊行したものです。新共同訳聖書が生み出されてから30年の時を経て、2018年に新しい翻訳の聖書が生まれました。「聖書協会共同訳」という名称の聖書です。
2018年の「聖書協会共同訳」ではわたしが20年以上気になっていた聖書の箇所が新しく訳されていました。本日読んでいただいた聖書の箇所です。「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」。キリスト教の最初期の宣教師のパウロという人が書いた言葉です。これが新しい「聖書協会共同訳」では以下のように訳されています。「しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです」。全く意味が異なります。わたしたちの聖書では「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」となっています。それが新しい訳では「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実による」と訳されています。「信仰」と「真実」という言葉はギリシャ語のpistisという言葉です。前者は「イエス・キリストへの信仰」、後者は「イエス・キリストの真実」と訳されています。「への信仰」というのはこちら側、人間の信仰が重要です。イエス・キリストへと向かう信仰が必要です。しかし、後者は、「イエス・キリストの真実」です。こちら側の信仰、小さく弱い人間の信仰などは関係がないのです。ただひたすら、イエス・キリストのわたしたちに対する真実さによって、あなたがたは義とされるという意味です。義とされるというのは神様と良い関係を持つ者とされるということです。パウロという人は、元々はユダヤ教徒で、神様が求めておられることを完璧にこなすことができるという自負があった人です。しかも、神様への完璧さを他人に求める者でもあったのです。わたしは完璧な人間です。あなたも完璧に生きなさい、と。でもパウロという人はこれが無駄だということに気づいたのです。どんなに努力しても人間は完璧なものになることなどできないと気づいてしまったのです。この手紙はパウロがガラテヤという地方のキリスト教徒に送ったものです。人間というのは決定的に大事なことを忘れてしまうものです。自分の力だけで生きているのではないにも関わらず、過信してしまうことがあるので。パウロはそのような人々にイエス・キリストという方のわたしたちに対する真実によってわたしたちは生きているのだ、生かされているのだということを思い出させようとしているのです。自分の力で生きる自力的な生き方から、自分をいつも見守ってくださる力に頼る他力的な生き方です。
キリスト教は大きく分けて二つの流れがあります。カトリックとプロテスタントです。敬和学園はプロテスタントのキリスト教の流れを汲む学校です。今日10月31日はプロテスタントのキリスト教にとって重要な日です。宗教改革記念日と呼ばれる日です。今から507年前の1517年10月31日にドイツのルターによって宗教改革が行われました。皆さんも世界史の授業においてこの人の名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。この人もパウロと同じくどんなに努力しても人間は完璧なものになることなどできないと気づいてしまったのです。当時の教会はとても堕落していました。こんな言葉を語るキリスト教の指導者もいました。「金貨が(献金)箱の中でチャリンと音を立てるや否や、煉獄で苦しむ者たちの魂はたちまち天国に召し上げられる」と。当時の教会は、見えないものではなく、金に支配される場所になってしまっていたのです。金さえ出せば神様の領域のことも人間の思うようになると考えるまでになってしまっていたのです。ルターはこの人間中心に陥ってしまったキリスト教に対して、もう一度、原点に戻ろうではないか、と抗議したのです。プロテスタントのプロテストというのは抗議という意味です。
キリスト教が最も大事にしなければならないことは難しいものではありません。それは聖書に記されているイエスという方について思い巡らせるということです。わたしたちは、さまざまな可能性を宿しています。努力して自分の進むべき道を切り開くことはとても重要です。しかし、道を切り開いていく時に傲慢さも生まれてくることも忘れてはならないのです。イエスはこんなことを語っています。ヨハネによる福音書5章17節の言葉です。「イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ』」。神様はいつもわたしたちを見守ってくださっている、とイエスは言うのです。繰り返しますが、本日10月31日宗教改革記念日です。見えないものではなく、見えるものに心を奪われ堕落したキリスト教に対して、もう一度聖書に立ち返って歩まなければならないと当時の教会に抗議した日です。わたしたちは一人では生きることは絶対にできません。わたしたちを生かしてくださる方は誰なのか、見えない存在を意識しながら過ごしていきたいと思うのです。