自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2024/10/29
【聖書:使徒言行録 14章 16節~17節】
「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」
私が皆さんに伝えたいのは私にとって神様がどんな方なのかということと、お祈りに対する私なりの解釈です。私の父は牧師をしており、クリスチャンホームで育ちました。物心がつく前からずっと教会に通っていたため、神様のことは小さいころから知っていましたし、信じることに違和感を覚えませんでした。しかし学校に通い始めると学年が進むにつれてクリスチャンの友達が周りに少ないことに気づき、いつしか自分がクリスチャンであることを周りに言わなくなっていきました。クリスチャンだということで馬鹿にされたり壁を置かれたりすることを恐れていたからです。そのような事をしているうちに自分と神様の間には壁ができていきました。中学生になると思春期ということもあって、神様のことを素直に信じることができなくなっていました。目に見えないのにどうして信じるの?なにを今さら、ほんとにいるの?いや、いる、なんてことをずっと自問自答していました。中学三年生のころ、自分の進路を考える時期に入りました。私が高校を探すにあたって一つだけ決めていることがありました。それはキリスト教系の高校に進むことでした。神様がいるということに確信を持ちたかったからです。秋のオープンキャンパスに来てみると敬和の方はみんな温かく、校風が自分と合ったため入学することに決めました。それから今まで、沢山の気づきと成長に恵まれました。そしてあることを知ったのです。それは今までの人生を通して神様がずっと一緒にいてくれたということと、神様がともにいてくださるから何も恐れなくていいということです。小学校の時、神様から離れてしまったのも、中学生の時自問自答していたことも、こうして敬和に入学できたのもすべて神様が下さった恵みであり、神様の知らないところで起きたことは何一つないのです。このことは皆さんも同じで、神様はどんな人も愛し、いつも私たちと共にいて支え見守っていてくださいます。人の心と神様の関係を説明するにあたってよく使われる表現があります。それは扉です。ですがその扉の外側にはドアノブがないため、外にいる人は中の人がドアを開けるまで入れません。この扉とは心の扉のことで、あなたの扉の外では神様がノックをしながらドアが開くのをずっと今も待っているのです。このノックとは日々の礼拝や聖書を開く時なんじゃないかなと私は思います。またそれらに限らず、実は一日を通してノックはあふれておりそれに気づけたとき扉を開くことができるのです。
私は日々色んな活動をなんとかなる精神で取り組んでいます。色々なことが起こりますが、どんなことがおきてもそれは神様がくださる恵みであり自分に必要なことなのだと考えると将来にたいする恐れが一つ、また一つと消えていく気がします。例えていうならば外国の治安が悪い夜道を歩くとき横にマッチョな人が用心棒としていてくれるみたいな感じでしょうか。危険に脅かされても守ってくれるという安心感があるのです。しかしこの何とかなる精神をキープするためにはお祈りをすることが重要になってきます。お祈りをとおして神様と話さないと、恵みを下さっていることやいつも守ってくださっていることを忘れてしまうからです。お祈りと聞くと堅苦しいイメージを持つ人もいるのではないでしょうか。そもそも何をお祈りするの?と思うかもしれません。お祈りは人に相談をするのと似ているところがあり、何気なく疑問に思ったことを聞いたり、悩んでいることを嘆いたり、誰にも言えないような心の傷を訴える、一種の会話のようなものです。そう聞くと、気軽にお祈りできそうですよね。しかし神様が直接返事してくるわけではありませんから会話ではないと思いませんか?しかし返事は確かに、一人一人にしてくださっています。それが、先ほどお話した恵みです。神様は聖書の言葉や周りの人との交わり、またあなたの周りで起きた出来事や周りの人の口を通してあなたに語りかけてくれます。それに気づいたとき、なんとかなる精神があなたにも生まれるかもしれません。最後に、お祈りをしたからといって願ったことが必ず叶うわけではありません。それでも神様は、その時、その人にとって一番必要なものを与えてくださるのです。
あなたにも神様の恵みが豊かにありますように。