自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2024/10/21
【聖書:マタイによる福音書 7章 13~14節】
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
敬和学園が創立されたのは1968年4月、今から57年前のことです。
当時、日本は高度経済成長の真っ只中にありました。
創立の4年前、1964年には東京オリンピックが、そして、1970年には大阪万博が開催されました。
今と似ているように思えますが、社会状況はまったく違っていました。
当時は、子供の数が多く、どこにいっても子どもや若者たちの熱気に満ちていました。
しかし、子どもが多いと何が起きるでしょうか。
競争です。子供たちは幼い頃から、厳しい競争を強いられました。
学校は、今とは比べものにならないほど、受験教育の場となりました。
敬和が出来たのはそのような時代です。
私が中学校に入学したのは、1970年、大阪万博の年です。
高校も地元の公立高校に進学しました。
私の中学、高校生活はあまり楽しいものではありませんでした。
敬和に就職して初めて、敬和生に会ったとき、自由で伸び伸びと学校生活を送る彼らを、うらやましく思いました。
できるなら、自分も敬和で高校生活を送りたかった、と心から思いました。
私の中学・高校時代、よく耳にした言葉に「狭き門」という言葉があります。
たとえば「今年の○○大学の入試は、受験生にとって狭き門となった。」
○○大学の競争倍率が高く、合格するのが難しい、という意味です。
当時、マスコミをはじめ、多くの大人たちは、子供たちに、勉強をがんばって、競争に勝ち抜かなければ、普通の人生さえも送れない、と言って受験競争をあおりました。
この「狭き門」とは、今日の聖書からの引用です。
では、イエスの言う、「狭い門からはいりなさい」という言葉は競争に勝つことを意味するのでしょうか。
今日は、そのことを考えてみたいと思います。
フランツ・カフカというチェコ出身の小説家に「掟(おきて)の門」という作品があります。
今から、100年以上前に書かれた、文庫本で4ページほどの短い作品です。
それは次の文章で始まります。
掟の門の門前に門番が立っていた。そこへ田舎から一人の男がやって来て、「入れてくれ、」と言った。「今はだめだ、」と門番は答えた。
その後も男は何度も許可を求めますが、いろいろな理由で断られます。
男は門の中に入ってみたかったので、何年も待ち続けます。
門番とも親しくなり、気長に待つようにと、椅子まで貸してもらいますが、それでも門番の許可はおりません。
そして、とうとう男は死の時を迎えます。
視力が弱くなり、あたりが暗くなったのか目のせいかは、わかりません。
暗闇のなか、掟の門の向こう側に、燦然ときらめくものが見えます。
男は門番に質問します。
「どうして私以外の誰ひとり、中に入れてくれといって来なかったのですか。」
門番は答えます。
「ほかの誰ひとり、ここに入れない。この門は、おまえひとりのものだった。さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ。」
小説はこの門番の言葉で終わっています。
結局、男は門に入れず、亡くなってしまうのです。
まったく何が言いたいのか、わからない小説です。
そもそも、「掟の門」とは何だったのでしょう。
なぜ男は、一生をかけて、その門に入ろうとしたのでしょうか、
そして、門番とは何者だったのでしょう。
いろいろ疑問が湧いてきます。しかし、正直、分かりません。
しかし私には,この小説が今日の聖書と何か関係があるように思います。
「この門はおまえひとりのものだった」という、門番の言葉が印象的です。
この門は、男にとっての「狭き門」だったのかもしれません。
それは誰もが行く、広い門ではなく、自分ひとりのために備えられた門です。
男は、その門を発見し、そこから入ることを求め続けました。
しかし、男が入ることは許されませんでした。
そして死の間際、暗闇のなかに燦然と門の向こう側に、きらめくものを目にします。
このきらめくものとは、何を意味するのでしょうか。
もう一度、聖書をお読みします。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
命に通じる門・・・
男が門の向こう側に見た、きらめくものとは、「命のきらめき」のことだったのです。
男は、門のこちら側から「命のきらめき」を見ていたのです。
イエスは「狭い門」とともに「広い門」についても触れています。
広い門とは、その道は広々として、そこから入るものが多い、といいます。
広い門から入る人とは、周りの空気に流されて、みんなが行くから自分も行こう、という人のことです。
日本人は、この傾向が強いのかもしれません。
しかし、その道は滅びに通じる、といって戒められます。
それに対して、狭い門とは、自分ひとりのために備えられている門です。
ですから、イエスが言う、狭い門とは競争に勝つことではありません。
イエスは私たちに、それぞれが自分にとっての「狭い門」を見出し、その道を、勇気をもって進むように教えます。
その道は細く、狭いけれど、それは命に通じる道だからです。
私たちも、それぞれに備えられた狭い門から入る者でありたいと願います。
今朝の敬和