自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2024/10/10
【聖書:マタイによる福音書 13章 24-30節】
イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
パレスチナのハマスがイスラエルに奇襲攻撃をかけてから、今月の7日で1年が経ちました。双方に犠牲者が出ていますし、ハマスもイスラエル政府にも戦争犯罪が指摘されています。しかし、紛争は拡大するばかりです。先日、現在のイスラエルとガザ地区、西岸地区を取材した番組が放映され、見ていて苦しくなりました。イスラエルには、人質を助けてほしいと停戦を叫ぶ人びとがいますし、ガザの人びとを支援する働きをする人びともいます。けれども、彼ら彼女らには同じイスラエル国内から敵意あらわな非難の言葉の数々が降り注ぎます。番組の中で、あるイスラエル人の男性が熱弁をふるっていました。「イスラエル兵やイスラエルに危害を加える者と戦います。これは善と悪、光と闇の戦いです。善の民である私たちは必ず勝利します。」今回のガザ侵攻を批判し、拘束されたイスラエル人の教師は、「多くのユダヤ人は、自分たちと違う人々を受け入れることができない。あちらが悪で、こちらが善という考えから抜け出すのはとても難しいのです。」と語っていました。もちろん、ユダヤの人たちが長い間、差別対象となり、理不尽に命や生活を奪われてきた歴史が深く影響しています。それでも、いやだからこそ、自分たちは善であると信じて疑わず、自分とは違う悪と断定する人たちの命や生活を奪ったり、それらが法に違反する行いであっても許されるのか、すべて正当化されるのかといえば、決してそうではないはずです。
先ほど読んでいただいたたとえ話を、数年前、聖書の時間で扱った時、自分が毒麦かと聞いてきた生徒がいました。それに対して、誰が良い麦で誰が毒麦だとはいえないし、わたしたち一人ひとりが、良い麦と毒麦の両方をあわせ持っているのではないか、という話をしたと思います。毒麦を抜こうとして良い麦も抜いてしまう可能性があるのは、根っこがからんでしまっているように、両方がつながっている部分があるからだと考えるからです。誰にも良い面も悪い面もある。そんな一人ひとりが育っていく時間を神は与えてくれている。自分は良い、あの人は悪いと早々と判断し、線を引き排除してしまいがちなのですが、試行錯誤しながら、お互いのことを学んだり、理解しようと努力する時間をもっと大切にしなくてはと自らを省みました。先ほど、拘束されたイスラエル人の教師の言葉をご紹介しましたが、彼は、大学でパレスチナ人と出会い、彼ら彼女らが自分と同じ人間で、自分が持っている権利を彼らにも持ってほしいと考えるようになったといいます。そのことを、今彼は反発を受けながらも伝えようとしています。
今、渡り廊下に56回生が修養会でつくった「平和の詩」が掲示されていますが、その中にこんな一節がありました。「ウワサで全てを知った気になるな。他と異なる点が濃い人を恐れるな。」誰かの見方、一つの考え方で全てがわかるわけではないし、違っているところを知ろうとすることで、恐れは薄らいでいく。今、戦争だけでなく、身近な人間関係においても、このことは求められていることの一つではないでしょうか。