自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2024/09/30NEW!
【聖書:マタイによる福音書 6章 34節】
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
先週は2泊3日の修養会お疲れ様でした。
1年生は、「壁に打ち勝て、進撃の57回生」をテーマに、国立磐梯青少年交流の家での講演、食事作り、レクリエーションを中心とした修養会でした。
2年生は、ニュー・グリーンピア津南を会場に、講演やグループワークを通して、平和について共に考える修養会でした。
3年生は東日本大震災の被災地である、宮城県 気仙沼市、南三陸町、原発事故があった福島県を訪れました。
各学年、今の時代にふさわしい有意義なものだったと思います。
幸い天候にも恵まれ、学校全体で無事にプログラムを実行できたことを嬉しく思います。
修養会は一つの旅にたとえることができます。
いつもの学校生活とは全く違う経験をして、人間的に成長するための旅です。
成長するためには、精神的、肉体的にある程度の負荷、困難が課されることが必要です。
みんなで協力して、その困難に立ち向かい、それを乗り越えることによって、さまざまなことを学び、それが成長につながるからです。
各学年、内容は全く異なりますが、何かをやり切った、という思いがあるのではないでしょうか。
この3日間は、皆さんを一段階、上に成長させてくれたはずです。
しかし、この旅にはもう一つの目的があります。
それは、私たちが当たり前に生きている日常の再発見です。
皆さんは、修養会が終わり、家や寮に帰ったとき、ほっとしませんでしたか。
身近にいる家族や寮の友達とすごす日常に安らぎを感じたはずです。
日常とは、命のいとなみです。
普段、家族や友人とともに、当たり前に生きているこの日常という営み、
災害や戦争・疫病のない、平和な日本で生活できていることが、どんなに尊く、恵まれたことか、そのことにあらためて気づかされる経験です。
そして、何気なくすごしている毎日の学校生活という日常。
その意味を再発見することも修養会の目的です。
この時期は、ちょうど一年の折り返しにあたります。
皆さんも、新しい気持ちでこれから、一年の後半に臨んで欲しいと思います。
さて、私は3年生の修養会に同行しました。
往復バスでの移動は大変でしたが、現場に行ってみることの大切さをあらためて教えられました。
震災遺構として、当時の状態がそのまま保存されている建物や場所に行くと、津波のすさまじさが伝わってきます。
自分が、もしそこにいたら、どうしただろうか、と考えさせられます。
そして、語り部の方のお話からは、当時の様子が伝わってきました。
見るもの、聞くこと、その多くが重い内容でしたが、3年生は真剣な態度で臨むことができました。
私自身、情報量も多いので、どのように現実を受け止めてようかわからない面がありました。
それは生徒にとっても同じだったと思います。
見聞した内容を消化するためには時間が必要だと思いました。
人間には、見たこと、聞いたことを無意識にその人に必要な知識や知恵に変えてくれる力が備わっている、と言います。
それは、食べ物の消化と似ています。
食べたものを、消化しようと思って消化する人はいません。
無意識のうちに、胃や腸が食べたものを消化し、体に吸収してくれます。
それが、その人の体をつくり、日々を生きるエネルギーとなるのです。
人間の経験も同じだと思います。
それは、時間をかけて、その人の心のなかで、生きる力と知恵に変えられて行くのです。
1,2年生もそれぞれの場所で、今回、さまざまな経験をしたことでしょう。
この経験は、皆さんのなかで、必ず、これから生きて行くために必要な力と知恵になる時が来ます。
人間が見たり、聞いたりしたこと、実際に体験したことは、すべて消えずに心のなかに保存される、とも言われます。
それは、必要な時、いつか形となって、はっきり現れます。
このように、若いころの経験が皆さんの人生の土台を作って行くのです。
今日の聖書です。
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日、自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
イエス様は、明日のことを心配するよりも、今日という一日を一生懸命、生きなさい、と教えます。
それは、「今日できることを明日に回すな、」という意味でもあります。
私も今回、被災地を訪れて、あらためて、そう思いました。
今日という日は、神様から与えられた、かけがえのない貴重な一日です。
一日一日を大切に生きること。
明日という日が、来ないことだってあるのです。
「あの時が、感謝の気持ちを伝える最後の機会だったのに、後回しにしてしまった。」
そう言って後悔された方が、災害の後にはたくさんおられた、といいます。
今日という日を、かけがえのない一日として、精一杯、生きる私たちでありたいと願います。
今朝の敬和