自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2024/09/20
【聖書:マタイによる福音書 10章 42節】
「はっきり言っておく。私の弟子だという理由で、この小さな者の1人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
私は、8月4日から7日にかけて学校主催のヒロシマ碑巡りの旅に参加しました。今日はそこで学んだことや思ったことをお話したいと思います。
一つ目は、原爆記念資料館に行ったときのことです。資料館には、平和祈念式典前日ということもあり多くの人であふれていました。そんな中で、私には驚いたことがありました。それは、外国の方が多く訪れていたということです。どこを見るにも必ず視界には外国の方が映っていました。私は、これだけ多くの外国の方が、七十九年前に広島でおきた原爆に、向き合ってくれているんだなと思い、嬉しくなりました。自分の国で起こったことではない原爆投下について、そのことに向き合い、実際に、広島で何があったって、どうなってしまったのかを、自分の目で確かめる。それはとても勇気のいることだと思います。だから、私はうれしかったし、自分ももっと向き合わなければいけないと感じました。
原爆投下後の広島は、生死をさまよう人たちであふれかえっていました。運よく生き残った人たちもいましたが、その後の生活は、決していいことばかりではなく、そこからまたつらい生活が始まることを、私は初めて知りました。原爆の放射線による後遺症があることによって、苦しい闘病生活があることは知っていました。しかし、それによって家族が崩壊してしまう現実もあるのです。
そこで印象的だったのが、N家の崩壊です。働き者の漁師だったNさんは、八月六日、建物疎開作業中に被爆しました。全身に大やけどを負いましたが、徐々に回復し、二年後には漁に出られるようになりました。しかし、その生活も長くは続きませんでした。ある時、生計を支えるために働き続けた妻が亡くなりました。子どもを殺して死のうと決心したNさんは、子どもの首に手をかけました。が、どうしても力が入らず朝を迎えました。私は、被爆したことによって、その人の身体だけではなく、心にも大きな負担や苦痛を与え、さらにその家族を破滅させるような影響を原爆が与えたのだという現実を知り、とても大きな衝撃を受けました。このNさんはどのような気持ちで、被爆後の生活を過ごしていたのか、家族に対して、何を思っていたのか。その気持ちを考えると、私はとても複雑な何とも言えない重苦しさを感じました。
二つ目は、被爆者の方のお話を聞いたときのことです。私は初めて、物心がついている時に被爆した方に、お話を直接聞きました。その方の名前は、早志百合子さんです。早志さんは9歳の頃に爆心地から1.6㎞離れた自宅で被爆しました。早志さんは当時のことをこう話してくださいました。「家の玄関から外に出ようとしたとき、西の方からピカっと強烈な閃光が突き刺し、太陽が二つに見えた。」と。早志さんはその瞬間、爆風で10m飛ばされました。あたりは驚くほど静かでしたが、少しずつ明るくなるにつれてあちこちから叫び声が聞こえたそうです。早志さん家族は、奇跡的に全員助かりすぐに避難を開始しました。みんなが燃え盛る火の中を逃げることで必死でしたが、早志さんのお父さんは、道端に倒れ、水を欲しがっている人々に何度も往復して水を与えました。当時は水を与えると被爆者はすぐ亡くなると言われていましたが、お父さんは最後の願いくらい叶えてあげたいという一心だったそうです。
「私にはできない。」これが私の率直な気持ちでした。大火事の中を、家族を引き連れて逃げている。そのまま急いで逃げれば、自分たちは助かる。なのに、道端で亡くなりかけている、そして水を与えても助からない人たちに対して、何度も水を運ぶ。私は、お父さんの行動を聞いて、優しさだけではない強さや覚悟のようなものを感じました。それは、命に対する誠実さと言っても、いいかもしれません。過酷な状態の中で、いま目の前にある命に向き合い、小さなことでもその命のために自分ができる最善のことをする。私はこのお父さんのような振る舞いはできないかもしれませんが、でも、こんな人になりたいという目標ができた体験でした。
今日の聖書箇所は、目の前の人に水を差しだしています。私たちは、常に周りの目を気にして、その時にどのような行いをするか、決めています。しかし、本当の行いとは、誰かが見てる見ていないにかかわらず、自分が信じる小さな最善の行いを、周りの人たちに進んでできることだと私は思います。
私は、このヒロシマ碑巡りの旅を通して、当たり前が当たり前ではなく、命とは本当に尊く大切なものだということを実感しました。みなさんも機会があれば、是非広島を訪れて、今から79年前の日本で何が起こったのか、自分の目で見てほしいと思います。
ヒロシマには、至る所に必ず水があって、被爆された方々が、どれほど水を求めていたのかを知ることができました。被爆者から聞いたお父さんのように、どんな時でも大切なことが何かということを忘れることなく、普段の生活でも自分の信念に従って、周りの人に水を差しだせるような人になりたいと思います。