自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2024/09/19
おはようございます。
敬和学園では来週修養会が計画されています。わたしも業生なので3年間修養会に参加してきました。特に2年生の時の修養会はわたしに決定的な影響を与えました。その修養会では長野の小谷村にある共働学舎の創立者宮嶋眞一郎先生のお話を聞く機会が与えられました。共働学舎は様々なハンディを持った方々が一緒に働き生活をする共同体です。先生は共同学者の始まりの頃の話をしてくださいました。井戸掘りの話でした。先生は40メートル近くの穴を掘ってどんどん下に降っていったそうです。中は真っ暗、肌寒さも感じたそうです。先生はわたしたちに質問をされました。「40メートルの井戸の底で空を見上げたんだけれども、何が見えたかわかるかい」。わたしたちは答えをだすことはできませんでした。先生は一通り生徒の言葉を聞いたあと「星が見えた」と話されました。先生の話はそこで終わりました。わたしは先生の言葉を思いめぐらせました。暗闇、寒さというのは人間が生きる中で感じる絶望や孤独のことではないのか。これからの人生、絶望や孤独の中にあっても上を見上げる時、大きな存在が見守っていることを伝えようとされたのではないかと感じました。幼いころから教会に通っていたわたしは、この時はっきりと自分を見守る存在が誰なのかということに気づかされました。イエスという方です。その時から、イエスに従っていく、イエスを伝える働きをしたいと思うようになりました。
わたしは昨年人生で最も辛い経験をしました。前にまったく進むことができないような絶望、孤独の中に突き落とされました。そのような厳しい現実の中で、高校2年生の時に聞いた宮嶋先生の言葉を思い出していました。絶望、孤独を感じながらも、少しずつそれらを引き裂く力も感じるようになっていったのです。わたしにとってはイエスという方の存在でした。イエスは見えません。しかし聖書を読み、その物語に身をおく時、イエスを感じることができます。不思議なことですが、聖書の物語に登場する絶望と孤独を感じながら生きている人物と自分自身が重なると感じたのです。彼らがもう一度生きる希望を与えられたのと同時に、わたし自身も、もう一度新しく生き直そうという思いが与えられました。
イエスはガリラヤという場所で活動していたようです。イエスはユダヤ人でしたから、仲間のユダヤ人に言葉を語り、病を治すという働きをしました。けれどもイエスはユダヤ人限定ではなく外国人にも同じようしたのです。ガリラヤ湖の向こう側は外国人が住む場所でした。ユダヤ人たちは外国人を穢れた存在と考えていました。普段付き合いはありませんでした。けれどもイエスはそんなことを全く気にしませんでした。イエスは弟子たちと共に外国人が住む場所に向かうために舟に乗ったのです。彼らにも神様はどのような方なのかを伝えようとしたのです。
ガリラヤ湖には時々、突風が吹いたそうです。風は高波も発生させます。小さな舟などはこの高波にのまれて転覆してしまうこともあったそうです。この時、イエスと弟子たちはそのガリラヤ湖の嵐に巻き込まれてそうになっていたのです。イエスの弟子たちはガリラヤ湖の漁師でした。ガリラヤ湖のことは何でも知っていたはずです。嵐も何度も経験していたはずです。しかし、この時は弟子たちが経験したことがないような風が吹き荒れたのです。弟子たちはパニック状態です。けれども、イエスは舟の中で呑気に眠っていたのです。弟子たちは大声で騒ぎ出し、イエスに助けを求めました。イエスは弟子たちの声を聞いて起き上がります。そして言ったのです。「黙れ、静まれ」と。聖書は、イエスが起こした奇跡を報告しています。風は止んですっかり凪になったと。
弟子たちは、経験したことのない恐怖の中で自分を見失っていました。同時に自分をいつも見守ってくださる存在をも見失っていたのです。すぐ近くにいながらも、自分を見守る存在に気づいていなかったのです。36節を見ると弟子たちの舟と共に「ほかの舟」も一緒だったと記されています。弟子たちだけが嵐を経験した訳ではないことがこの言葉からわかります。「ほかの舟」も絶体絶命の危機に陥っていたのです。しかし、この舟に乗っていた人間の命もイエスは見守り、失われそうになった命を救い出したのです。「ほかの舟」に乗っていた人々とは誰のことでしょうか。今この時に生きるわたしたちのことでもあるのではないでしょうか。
わたしは冒頭で、昨年人生で最も辛い思いをしたと申し上げました。前に進ことができずに全く動くことができませんでした。けれども、30年以上の時を経て高校2年生の時に聞いた宮島先生が語ってくださったお話を思い出したのです。厳しい現実の中にあっても、絶望、孤独と感じるようなことがあっても、一人ではないということです。
最近、わたしはある方にハンス・キュンクという人の『イエス』という本を紹介していただきました。こんな言葉が記されていました。
「イエス・キリストのあとに従いながら
人は今日の世界で
真に人間らしく生きて、行動して、苦しんで、死んでいくことができる
幸福な時も、不安な時も、生きる時も、死ぬ時も、神に抱かれて、
人々を大いに助けながら」
繰り返しますがわたしは高校2年生の時の修養会で、イエスに従っていく、イエスを伝えたいと願うようになりました。そして牧師として生きてきました。今は学校という場所で働かせていただいています。これまでとは仕事の内容も異なっています。けれども、キュンクが言うような歩みを継続していきたいと思います。「イエス・キリストのあとに従いながら」という歩みです。
わたしは高校2年生の時の修養会において自分の道を決定づけるような出会いが与えられました。この出会いによって与えられた存在イエスという方がわたしを今も突き動かすのです。
ここにいる皆さんにとっても、修養会の3日間がかけがえのない時、かけがえのない出会いとなるように願います。