自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2024/09/17
【聖書:コリントの信徒への手紙二 12章 7節】
「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることがないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないようにと、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」
夏休みに秋田に出かけた時に考えたこと。秋田には“なはげが”がいて、「悪い子はいねがー」と鬼のような風貌で、人々の怠けていることやや、仲を悪くしていることや、良くない行いをたしなめてくれる。人は悪いことをしたときに恥ずかしさや罪悪感から、したことを隠してしまいたくなる。素直に受け止められず逆切れしたり、反対に人に施すことで打ち消そうとしたりもする。また、人が悪いことをしている時にたしなめたり、諭したりすることも簡単にはできない。そのような時になまはげが怒りに来てくれたらと思う。なまはげは鬼のような恰好をしているが、そういういい神さんである。鬼は私たちの心の中にむしろいるのではないだろうか、人を恨んだり憎んだり、自分の失敗を隠そうとしたりするとき、人の心は鬼のような持ちように変貌してしまう。誰かのせいにすることはあるが、その人をののしると自分が鬼になる。また自分が鬼のような悪い奴で退治されなければと、鬼とくっついてしまうこともある。おそらく私の中にも、他の人の中にも、大人にも、鬼がいるということをわかると鬼の問題は整理できるかもしれない。堂々巡りの考えや、あふれんばかりの感情は鬼に気づくサイン。
昔話を見ると悪い鬼ばかりではないが、その鬼との対決は時に命がけで怖くとも向き合わなければならないものである。そしてその先に何か得るものがある。怖いけど向き合ってみると、自分をたしなめてくれるなまはげのような神様かもしれないし、戦うことで何かを得られるそういう体験になるかもしれない。怖いけど、ちょっと鬼の言い分も聞いてみようかという気持ちの余裕は持っていた方がいいかもしれない。なまはげの文化が失われないのも、鬼に怖さを感じるのも、そういう機会を人間は与えられていて、そういう機会を人間は少なからず乗り越えて生きていくんだということを感じずにはいられない。