自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2024/09/12
【聖書:マタイによる福音書 5章 46-48節】
「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。あなたがたが自分のきょうだいにだけ挨拶したところで、どれだけ優れたことをしたことになろうか。異邦人でも、同じことをしているではないか。だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。」
米津玄師の「がらくた」という曲をお聞きになった方はいますか。わたしがこの「がらくた」に興味がわいたのは、米津さんがこの曲について語っていたのを観たためです。彼は、廃品回収業者の車が拡声器で流す「壊れていてもかまいません」という一節が子どもの頃から好きだと言います。「あの言葉は、寂しい響きがあるし、懐が広くもある。壊れていたっていいじゃないか、人間だれしも壊れている部分があるし、そういうところをひとり一人抱えて生きているわけだし、完膚までにノーミスの人間は1人もいない。そういうものを自分は肯定したい。そういう気持ちで作った歌かもしれないですね。」と。確かに全く壊れているところがない完璧な人なんていませんよね。
「敵を愛しなさい」という教えの中で語られた「完全な者になりなさい」は、完璧な人になれ、ではなく、たとえ相手が敵であっても、大切にできる人になりなさい、ということです。これは簡単にはいきません。それでも、自分も許しがたい相手も、それぞれ壊れている部分がある不完全な人間であり、けれども神の目から見たら同じく愛する存在だとイエスは伝えたかったのだと思います。
今もパレスチナのハマスとイスラエルの戦いが続いていますが、先月「日本・イスラエル・パレスチナ合同学生会議」が開かれたことが報道されていました。パレスチナから来た青年とイスラエルから来た青年たちは、敵を許せるのか、相手の苦しみを理解できるのか、葛藤が続きました。解決はしませんが、双方にわずかながら前向きな姿勢が見られるようになったといいます。会議が終わるころ、イスラエルの青年が「痛みを共有できることはとても重要だ」と語っていました。どちらが正しいということではなく、壊されている痛みの部分をお互い持っていることを知ることができたら、敵対心を持つ互いを大切にするという無理難題に近い課題に取り組む大事な一歩となるのではないでしょうか。
わたしが敬和学園高校に赴任した頃、驚いたことの一つが、生徒の皆さんの共感力の高さでした。他の人の傷に敏感で、それを受け止めよう、場合によっては包み込もうとするのです。同時に、自分自身の傷にも向き合っていて、葛藤している人もいました。どこか壊れている者どうし、認め合っているとでもいいましょうか。その関係に私自身、慰められました。わたしたちは「がらくた」な部分があるという点では共通していて、そこから始める。それが、「完全な者にな」っていくということではないかと思うのです。