毎日の礼拝

毎日のお話

2024/09/05

浅妻 和章(教頭)

【聖書:マタイによる福音書 6章 34節】

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 

 8月に湯沢を訪問しました。湯沢には以前学年の修養会等で関わらせていただいたブナの森があります。ここは以前NPO法人が管理されてた森です。しかしそのNPO法人も5年ほど前に解散したとお聞きしました。理由は関わっていた方たちの高齢化と、後継者がいなかったことです。私は湯沢に行く機会があるといつもこの森を訪ねます。今回の訪問は3年ぶりでした。今回の訪問では、これまで最低限の管理がなされていた場所も何も手が入っていないようで、私たちが建てた標柱を見つけることもなかなか大変でした。もちろん、植え付けたブナの苗は鬱蒼とした藪になっており、見つけられませんでした。自分ができることはなかったのか、後悔してしまいました。

 ブナの森を訪ねる時に、いつも立ち寄ろうかどうか迷う場所があります。それはNPO法人の会長をされていたご自宅です。旅館業を営んでいます。毎回入口付近で一旦停車し、会長がいないかどうか確認していました。いろいろとお忙しい方でしたから、自宅にてお見かけすることはなかなかありませんでした。結局いつもおられないようでしたので、自宅への訪問は遠慮していました。今回も同様に確認しましたが、おられないようでしたので、残念な気持ちをもちつつ帰路につきました。しかし、このまま帰っていいのかなと思い、車をUターンし、思い切って訪問しました。そうすると会長夫人が出て来られました。突然の訪問だったにも関わらず、快くリビングにあげてくださいました。これまで何度も森を訪問したこと、遠慮してご自宅に訪問することができなかったこと、スマホで撮影した写真を見ながらお話ししたこと、当時の思い出話等をしました。そのような中で、会長が3年前の11月にお亡くなりになっていたことを知りました。これを知った時にまた後悔しました。3年前の6月に森を訪問した際に、どうして会長宅を訪問しなかったのかと。鬱蒼とした森を見たとき以上に後悔の念が募りました。

 私たちは生きている中でいろいろと後悔の念にかられることがあります。できれば後悔なく生きたいと願います。私は今回の湯沢訪問でまた後悔をしてしまいました。でも会長宅を訪問し、いろいろとお話させていただく機会が与えられました。「今後も湯沢に訪問した時には、寄ろうと思っています。」そのことをお伝えしたら、「ぜひいつでも来てください!」大変喜んでくれました。自分なりの後悔への対応というか後始末といったものでしょうか。

 後悔なく生きるってどのような生き方なのでしょうか。そのヒントが今日の聖書箇所の「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。」にあるのではと思います。私たちは「明日」のことについて思い悩みます。それは「明日」が大切だからです。私たちにとって「明日」は大切ですが、同時に、「今日」という日も大切です。「今日」という日なしに、「明日」という日は訪れることはありません。私たちが「明日」のことばかり考え、悩んでいるとき、忘れてしまっているのは、「今日」という日の大切さです。「今日」という日に目を向けること、「今日」という日を大切にして生きること、その積み重ねによって、「明日」すなわち「未来」は形づくられていくのです。

 今日、そして今為すべきことをきちんと為すこと、これが未来につながり、後悔のない生き方につながっていく、大変難しいのですが、少しでもそうありたいと願います。