お知らせ

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2024/09/09

今週の校長の話(2024.9.9) 「人権とは何か」

【聖書:マタイによる福音書 25章 40節】

そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

 

 

皆さんは「人権」という言葉を聞いたことがあると思います。

人権とは、全ての人が生まれながらにもつ権利のことです。

1948年に制定された世界人権宣言には次のように定められています。

「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利において平等である。」

日本国憲法も基本的人権を土台にして制定されました。

 

今、私たちは、当然のことのように「人はすべて、かけがえのない、尊い存在である、」と言います。

しかし、現実に、今、私たちの社会で本当に全ての人が、かけがえのない存在として認められているでしょうか。

今日はこれらの問題を考えるために、ある小説を紹介したいと思います。

アーシュラ・K・ル・グィンが書いた『オメラスから歩み去る人々』(「風の十二方位」所収)です。

作者は「ゲド戦記」という作品でも有名です。

 

世界のどこかに存在するオメラスという町の話です。

小説は次の文章で始まります。

「けたたましい鐘の音に驚いた燕たちが空へ飛び立つのといっしょに、ここオメラスの都、華麗な塔の立ち並ぶ海のほとりに、〈夏の祝祭〉がおとずれる。」

オメラスは治安も良く、経済的にも豊かです。

学問や芸術、さまざまな文化が花開き、すべてにおいて理想的な町です。

貧困も、人種差別も、暴力もありません。

町を支配する王様や軍隊も存在しません。

人々は幸せに、互いを思いやって平和に生活しています。

 

しかし、この町にも一つだけ、暗い闇があります。

町には一人、虐待されている知的障害の子どもがいるのです。

この子は、暗く不潔な地下に閉じ込められています。

生き残るための最低限の食糧だけが与えられ、日常的に殴られているのです。

オメラスの幸福は、この子をひどくいじめることを条件にして維持されています。

この子を地下室から救い出せば、町の幸せはすべて失われてしまうというのです。

その子がそこにいることは、町のみんなが知っています。

オメラスの子どもたちは、8歳から12歳のあいだに、おとなの口から説明を受けます。

穴蔵の子を見に来る客は、たいていはその年ごろの少年少女です。

彼らは例外なく、見たものに衝撃を受け、怒りと、憤りと、無力さを感じます。

その子のために、なにかしてやりたい。だが、自分たちにできることはなにもない。

もし、その子を救い出したなら、その瞬間に町のすべての繁栄と喜び、人々の幸せが失われてしまうことを知っているからです。

物語は、この子を見た一部の人々が、オメラスから歩み去るところで終わります。

 

ここには、多くの人の幸福のために、一人を犠牲にしてよいのか、という問いが横たわっています。

このお話しから、学校での「いじめ」を思い浮かべた人もいるかもしれません。

いじめが起きているクラスでは、いじめられている人がいるから、他の人たちは安心して生活できます。

いじめられている人を救おうと動けば、今度は自分がいじめの対象になってしまいます。

だから、いじめがあると知っていても、多くの場合、見て見ぬふりをしてしまいます。

 

今、日本では食べ物や着るものに多くの人は不自由していません。

少し、お金を出せば、豊かな生活ができます。

しかし、その生活は経済的に貧しい国で、低賃金で働くたくさんの人たちの労働によって成り立っています。

経済的格差の現実、貧しい国の人たちの犠牲の上に成り立つ、豊かな国の人たちの幸福とも言えます。

 

日本の防衛に目を向けると、米軍基地が沖縄に集中していることが分かります。

沖縄県民の反対にもかかわらず、今も日本政府は沖縄の辺野古に米軍基地を作ろうとしています。

沖縄の方々の犠牲の上に成り立つ日本の平和という構図が見えてきますが、多くの日本人は、このことから目をそらしています。

このように、今、わたしたちが生きる社会は、あのオメラスの町のあり方と無関係ではありません。

 

今日の聖書です。

この世の終わりのとき、イエスが地上に降りて来られ、人々を裁きます。

どのように生きたかによって、一人ひとりが裁かれるのです。

イエスは、正しく生きた人たちに言います。

「あなたたちは私が飢えているときに食べさせ、のどが渇いているときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、病気のときに見舞ってくれた。」

すると、正しく生きた人たちは聞きます。

「主よ、いつ私たちは、あなたにそのようなことをしたでしょうか。」

イエスは答えます。

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

直接、イエスにしたことではなく、この世の最も小さい者に対して行った、あなたがたの親切な行動は、イエス自身に行ったことなのだ、というのです。

 

この世の最も小さい者と、あのオメラスの町の閉じ込められている子どもが重なります。

イエスは、一人の犠牲によって成り立つ社会ではなく、そのような犠牲者を必要としない、みんなが幸福である社会を作って欲しいと願って、教えを説きました。

しかし、それが簡単なことではないことは、イエス自身が、一番、わかっていました。

イエスは、後に、当局に捕らえ、弟子たちにも見捨てられ、十字架で亡くなります。

イエスは、このような死は、自分が最後であって欲しいと願って死んだのではないでしょうか。

残された弟子たちは、イエスの死の意味について考え続けます。

キリスト教が誕生するのは、彼らが、イエスの生と死の本当の意味について発見した時でした。

 

さて、今日、紹介した小説のタイトルは、『オメラスから歩み去る人々』です。

作者は、このオメラスから歩み去る人々に希望をたくしたのだと思います。

一人の犠牲によって成り立つ幸福に疑問を感じ、そこから歩み去る決断をした人たちです。

彼らは、一人ひとりが、かけがえのない存在である社会、一人ひとりの「人権」が尊重される社会のありかたを探し求める旅に出たのです。

私たちも、その恵みをおぼえて、今日の一日、ともに歩むものでありたいと願います。

 

0909eye

今朝の敬和