毎日の礼拝

毎日のお話

2024/08/29

與那城 初穂(聖書科)

【聖書:エゼキエル書 34章 16節】

「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。。」

 

 

 8月は戦争に関する番組が多く放映される月です。その中に、ノンフィクション作家の澤地久枝さんがご自分の戦争体験を語る番組がありました。澤地さんは、4歳で家族と共に満州にわたりました。1945年、ソ連が満州に侵攻し、日本は敗戦。その時から壮絶な難民生活が始まりました。ソ連兵に襲われそうになりながらの生活、病気も流行り、大勢の人が亡くなりました。日本政府に見捨てられたと思ったそうです。引揚げ船で日本に帰国したのは1年余り経った後でした。その後、しばらくの間は、戦争については考えることはなかったそうですが、「きけ、わだつみの声」という映画を観る機会があり、澤地さんは大きな衝撃を受けました。こんなに戦争を疑って、嫌で、戦争に行きたくないと思った青年たちがいて、しかも死んでいる。そこから澤地さんは戦争と向き合い、94歳になる今も文章を書き、活動を続けています。番組の中で語られた澤地さんの言葉で特に印象に残ったのは、辛かった難民生活を振り返った時の言葉です。「国が何か間違えた大きなことを決めるときには、やっぱり弱いところへみんなしわ寄せが来る。今も変わっていないと思います。一番責任を問われなくていいようなところにいる人たちがみんな背負う。」

 エゼキエル書のエゼキエルも、戦争経験者です。国は敗れ、敵国へ強制移住させられました。難民生活のようなものです。どうしてこうなったのだろう。それは国の指導者たちが神から与えられた人々を養う務めを果たさなかったからだ、「弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われた者を探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した。」と語ります。現代とも重なるところがあるように思います。自分のことは自分でなんとかしてください、家族で助け合ってください、国は責任をとりません。そんな声が聞こえてくるのはわたしだけでしょうか。始めてしまった戦争をどう終わらせるのか、見いだせないまま犠牲が増え続ける現状ともつながります。このような状況に対し、神は「公平をもって彼らを養う。」といいます。この「公平」は、「裁き」とも訳すことができる言葉だそうです。持っている権利を何らかの暴力で奪われ苦しめられている人がいたら、その人の側に立って、権利を取り戻す裁きです。現代的に言うなら、人権の回復でしょうか。25節まで読むと「平和」が出てくるのですが、奪われた人権が回復されるところに、平和はもたらされると聖書は語っています。

 今回、献金先として選んだ「核兵器をなくす日本キャンペーン」を教えてくれたのは若い学生さんだったのですが、彼女を通じて、改めて教えられたことがあります。平和の対義語は「戦争」ではなくて、「誰かがいきづらさを抱える社会」だということです。「人権」とか「平和」という言葉は、あちらこちらでよく聞きますが、含まれている内容が大きすぎて、普段の自分とはかけ離れた言葉に聞こえることがあるかもしれません。でも、「生きづらさ」ならどうでしょう。生きづらさを抱えているのはあなたかもしれないし、隣の人かもしれません。その原因はどこにあって、どうしたら変えていけるのか。社会の制度、経済状況、差別意識、などなど。今、わたしたちは学ぶことができる場にいます。「生きづらさ」と向き合うことも、平和実現へつながる道になるのではないでしょうか。