自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2024/09/02
【聖書:ルカによる福音書 10章 33~34節】
「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」
新学期を迎えて2週目となりました。まだ暑い日が続きますが、少しの時間、お話を聞いてください。
夏休み中、私は新潟県の私立高校教員対象の研修会に参加しました。参加者は150名ほどでした。
私は、数学科の教員ですが、敬和が国語科の担当校のため、国語の研修に初めて参加しました。
私は、研修をとおして「言葉」の意味について、あらためて考えさせられました。
「言葉は何のためにあるか?」と問われたとき、皆さんなら何と答えるでしょうか。
多くの人は「コミュニケーションのため」と答えると思います。
たしかに、言葉によって相手とコミュニケーションをとります。
しかし、言葉にはコミュニケーション以外の目的があります。
今日は、そのことを伝えてくれる、一つのエピソードを紹介します。
皆さんは、ヘレン・ケラーという人の名前を聞いたことがあると思います。
小学校の教科書でも紹介されています。また「奇跡の人」という映画にもなっている女性です。
ヘレン・ケラーは生まれて間もなく、病気のために視力と聴力を失います。
目も見えず、耳も聞こえず、もちろん言葉も話せません。
ヘレンが7歳のとき、サリバン先生という女性が家庭教師として来ます。
サリバン先生は当時20歳、ヘレンの家で一緒に生活します。
先生は、言葉を知らないヘレンに言葉を教えようとします。
モノに触れさせて、その名前を指で、手のひらに書くのです。
しかし、うまく行きません。
ヘレンは、それが何かの遊びのようにしか思っていません。
ところが、あるとき、ヘレンが手のひらに冷たい水をうけているとき、サリバン先生が、water (ウォーター)と指で文字を綴(つづ)ったとき、その指文字が、今、手のひらに流れている冷たい液体の名前なのだ、ということに初めて気づきます。
この一瞬の気づきが、ヘレンの人生を変えます。
waterという綴りが、この液体の名前だということ。そして、すべてのものには名前があるということに気づいたのです。
その後、ヘレンは、爆発的に、身の回りのものや行為すべての名前をサリバン先生に教わり、憶えて行きます。
名前を知ることは、そのものを認識することです。
ヘレンにとって言葉の発見は、人とのコミュニケーションのためではなく、まず世界を認識するためのものとして始まったのです。
人間は、言葉によって世界を認識し、言葉によって考えることができるようになりました。
人間以外の他の生き物たちも、鳴き声や動作などで、お互いにコミュニケーションをとることが知られています。
しかし、人間のように、言葉によって、考えることのできる生き物は存在しません。
人間は、言葉をもつことによって、考えることができるようになりました。
その結果、コミュニケーション能力が飛躍的に発達したのです。
言葉とは何のためにあるのか、人とのコミュニケーションのためか、世界を認識するためか。
難しい問題ですが、皆さんは、どのように考えるでしょうか。
ところで、今、AI(=人工知能)の発達が予想を超える勢いで進んでいます。
AIは、それを適切に利用することによって、私たちの勉強や仕事の形を大きく変えてくれる、有益なツールになるはずです。
その世界は目前にきています。
しかし、AIに聞けば、なんでも教えてもらえて、人間が自分で経験することなど、必要なくなる日が来るでしょうか。
私は来ないと思います。
たとえば、「メロン」という言葉をAIに聞けば、いろいろ説明してくれます。
AIには、メロンについての膨大な情報が記憶されているからです。
しかし、その説明を聞いて、メロンがどんなものか理解できるでしょうか。
「百聞は一見にしかず」という、ことわざがあります。
百の説明も、一目(ひとめ)、見ることにかなわない、という意味です。
メロンも同じです。
実際、手に取って、それを食べてみなければ分かりません。
「恋」という言葉をAIに聞けば説明してくれるでしょう。
しかし、人を好きになったことのないAIに、恋の切なさが分かるでしょうか。
AIに聞けば、恋についての説明は、終わることなくどこまでも続くでしょう。
ある言語学者はそのことを、「記号のメリーゴーランド」とよびます。
メリーゴーランドのように、同じところを楽しく回り続けるからです。
AIには、情報としての言葉はあっても、身体をとおしての経験がありません。
だから、その説明に着地点がないのです。
着地点をもたらすのは、その人、固有の経験です。
ヘレン・ケラーは、手のひらに流れる冷たい水を受けながら、サリバン先生が指で書いてくれたwater という言葉に出会いました。
水、手のひら、指文字、言葉、これらはつながっています。
人間は、身体をとおして、言葉と出会い、世界と出会うのです。
今日の聖書です。
ある律法学者がイエスに質問します。
「永遠の命を受け継ぐためには、何をしたらよいのでしょう。」
イエスは答えます。
「心を尽くして神を愛すること、そして、隣人を自分のように愛することだ。」
律法学者は質問します。
「では、私の隣人とは誰ですか。」
この質問に対する、イエスの答えが、今日の聖書です。
ある人が強盗に襲われ、強盗はその人を半殺しにしたまま立ち去ります。
通りかかった人は、苦しむその人を、見て見ぬふりをして通りすぎてしまいます。
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱します。
それだけではありません。次の朝、宿の主人にお金を渡して、この人を介抱してください、と頼んで出て行きます。
このようなお話です。
イエスに質問した、この律法学者は、「隣人を愛すること」についての知識はあっても、実際に人を愛したことが、おそらくありませんでした。
だから、「私の隣人とは誰ですか」と、イエスに頓珍漢(とんちんかん)な質問したのです。
律法学者とはユダヤ教の教えについて、たくさん勉強している人です。
でも、人を愛した経験がありません。
その点はAIと似ています。
イエスはそれに対して、まず、実際、困っている人、苦しんでいる人がいれば、自分の身体と時間とお金を使って助けてあげなさい、それこそが、隣人を自分のように愛することだ、と教えます。
私たちも、その恵みをおぼえて、今日の一日、互いに愛をもって歩む者でありたいと願います。
今朝の敬和