毎日の礼拝

毎日のお話

2024/06/20

大塚 忍(聖書科・労作科)

【聖書:コリントの信徒への手紙一 15章 3-5節】

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。

 

 

 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。

 

 『ことばの贈物』という本があります。敬和学園高校2年生のクリスマスに洗礼のお祝いに、と寮長先生からいただいた本です。歴史に名前を刻んできた人々の名言が記されていました。その中にこんな言葉が記されていました。「反論し論破するために読むな。信じて丸呑みするためにも読むな。話題や論題を見つけるためにも読むな。しかし、熟考し熟慮するために読むがよい」。高校生の自分にはピンとくる言葉ではありませんでした。けれども成長の過程で、わたしにとって重要な意味を持つ言葉になっていきました。キリスト教の勉強をする中で、牧師の仕事をする中で、聖書に対して「熟考し熟慮する」という姿勢が与えられるようになっていきました。

 

 聖書にはイスカリオテのユダという人物が登場します。キリスト教の世界ではかなりの有名人です。イエスの12弟子の1人です。イエスを裏切った人物として聖書には描かれています。この人はイエスの言葉やイエスの行いが記されている4つの福音書全てに登場します。丁寧に聖書を読むことによって、4つの福音書はユダについてそれぞれ異なる描き方がされていることに気づかされました。

 

 4つの福音書は、同じ時代に記された文書ではありません。目次では、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネですが、最初に書かれたのはマルコによる福音書です。その後、マタイ、ルカ、ヨハネが記されていきます。マルコによる福音書では、ユダがイエスの敵対者にイエスを引き渡す代わりに金銭を受け取る約束をしたとあります(91頁 14・10-11)。マルコ福音書が記されてから10年以上が経過して記されたマタイではイエスを銀貨30枚で売ろうしたという言葉が加えられています(52頁 26・14-16)。マタイと同じ時代に記されたルカによる福音書には、イスカリオテのユダの中に「サタンが入った」という言葉が加えられています(153頁 ルカ22・3-6)。最初に記されたマルコによる福音書にはない言葉がマタイ、ルカには加えられています。マルコの10年後に書かれた二つの福音書には銀貨30枚でイエスを売った。ユダはサタンと同化してしまったと書かれているのです。時間の経過と共にユダの悪魔性が拡張されていることに気づかされます。

 

 ユダの死についても聖書は報告しています。マタイによる福音書では彼は首をつって死んだ、と(56頁 27・3-10)。ルカによる福音書の続編の使徒言行録では「不正で得た金で買った土地にまっさかさまに落ちて死んだ」(214頁 1・17-19)と。ユダの死の描き方には矛盾があります。しかし、二つの文書に共通していることは、悪党にふさわしい死を迎えたということです。この二つの作者のユダに対する憎悪はかなり強いものです。神様の子どもと言われたイエスを裏切るようなやつは赦されることなどないのだ、とマタイとルカの福音書を書いた人はそう信じ込んでいたのです。

 

 繰り返しますが、福音書で一番最初に記されたのはマルコによる福音書です。この福音書には、ユダの死は書かれていません。ですが、こんなイエスの言葉が記されています。イエスが十字架につけられる前、弟子たちに語った言葉です。「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(92頁 14・28)と。これはイスカリオテのユダを含めた12人の弟子に向けられている言葉です。イエスは、イスカリオテのユダが自分を裏切ることを知っていました。けれども、彼に対しても、わたしは十字架につけられて復活した後に、すべての弟子に会うとはっきり約束しているのです。また生前イエスはこんなことを語っています。「はっきり言っておく、人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される」(66頁 マルコ3・28)。この言葉を文字通り受け取るならば、イエスを裏切ったユダもまた赦されるべき存在なのです。

 

 今日はコリントの信徒への手紙一15.3-5を読んでいただきました。新約聖書の目次では真ん中よりも少し前におかれていますが、この手紙は4つの福音書よりもだいぶ前に記された文書です。キリスト教の最初期の宣教師のパウロという人が書いた手紙です。実はこのこの人が書いた手紙には、イスカリオテのユダという人は一切登場しません。ですが、彼は決定的に重要な証言をしているのです。それが今日読んでいただいた聖書の箇所なのです。最後の部分5節だけ読んでみます。「ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。イエスの弟子は12人だったと申し上げました。キリスト教の最初期の宣教師パウロは、裏切ったイスカリオテのユダも含めた12人にイエスは復活して現れたと伝えているのです。11人の弟子だけに会ったのではないのです。イエスが死んで50年ぐらい経過した書かれたマタイによる福音書、ルカによる福音書が記された時代のキリスト教は、裏切り者のユダに対して、おまえのようなやつはわたしたちの共同体から出ていけ、お前のようなやつとわたしたちは違うのだ、と決別宣言をしたのです。けれども、イエスという方は、どうしようもない弱さを抱え、自分を裏切るようなユダという人間を赦し、一緒に生きる決断をしていたとこの手紙からは読むことができるのです。

 

 キリスト教には2000年の歴史があります。キリスト教は共同体を守るために様々な制度を作り上げてきました。重要なことだと思います。その努力がなかったらわたしたちはこの場所にいません。同時に、制度の維持のために大事なものも切り捨ててきたというのも現実です。自分こそが正統と考える声の大きい人間たちは、自分たちと異なる人間を切り捨ててきたのです。しかし、それはイエスの考え方とは異なります。なぜならイエスは自分を裏切るような人間にも出会い、彼を赦しているのです。キリスト教を看板に掲げているのであれば、その組織は、その組織の原点であるイエスに戻らなければならないのです。キリスト教は、イエスの言葉、イエスの振る舞いを土台にしていなければなりません。聖書に記されているイエスの思いを少しでも汲み取るために、熟考し熟慮しながらこの聖書という書物に向かい合っていきたいと思うのです。