毎日の礼拝

毎日のお話

2024/06/14

玉置 千鶴子(日本キリスト教団 長岡教会牧師)

【聖書:出エジプト記 3章 9-12節】

見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

 

 

 長岡教会で牧師をしています、37回生の玉置千鶴子です。敬和の3年間を経て、同志社大学神学部・神学研究科に進み、牧師になりました。

 1年生のみなさん、敬和での生活も約2か月が過ぎ、いかがですか?思い描いていた通りの高校生活でしょうか?それとも「思っていたのとは少し違うぞ?!」という人もいるかもしれません。2年生は先輩になっていろんな責任が増えてきた中で楽しいこともあれば「大変だなぁ」と思うこともきっとあることでしょう。3年生は最終学年になったという責任と、一方でその責任を手放していく・卒業していく時を過ごしていることでしょう。京都出身の私は寮生活の3年間でもありました。その3年間はそれぞれの時の中で自分と他者とに出会う大切な時間でした。皆さんも残りの数か月、あるいは1年・2年、それぞれに自分と他者とに出会う時を過ごすことが出来ますようにと勝手ながらお祈りしています。

 さて、今日は少し私自身の話をしながら聖書に登場するモーセという人の歩みにも触れてみたいと思います。私は今、同志社大学神学部出身の牧師を中心に実施されている“東日本ユースキャンプ”というキャンプの主事をしています。このキャンプは教会やキリスト教主義学校に連なっている高校生世代の人たちが出会い、自分や他者と出会うということを大切にしています。昨年に続き今年も新潟で開催しますので興味のある方はぜひ宗教科の先生に声をかけてみてください。さて、昨年開催されたこのキャンプにおいて「私は〇〇です」ということを考える時間がありました。例えば「私は牧師です」「私は敬和の37回生です」といったように「私は〇〇です」ということを私も高校生の皆さんと一緒にいくつか書き出してみました。でもあることを書いた時、ふと私の手は止まってしまいました。それは「私は3人兄弟の長女です」と書いた時です。私には確かに2人の弟がいます。しかし私の記憶の中には違う家族・兄妹もいるのです。すなわち「私は三つ子の真ん中です」という答えもふと沸いてきたのです。というのも私の2人の弟の内、特に年の近い真ん中の弟は生まれつき心臓や肺に重い疾患があって3歳までしか生きることが出来ないと言われていたのです。幼い私は親戚の家を転々として育ちました。その1つが、双子の同い年の子がいる家庭でした。3人でキャッキャ言いながら遊んだり、時にお兄ちゃんを怒らせて噛まれたり、お父さんやお母さんがいろんなところに遊びに連れて行ってくれたり…と楽しい思い出も辛い思い出も色々あります。弟の病状が少し落ち着いて実家に帰った時のことです。私は母親を前に「お母さんがいない」と泣きながら、母だと思っていた親戚のおばさんを探し回ったのでした。その後、本当の家族と過ごすようになりました。とはいえ弟の病状が落ち着いたと言っても重度の心身障害を抱えていることには変わりありません。更にその後に生まれた弟も軽度の知的障害を抱えていました。ですから私は「あなたは自分のことは自分でできるのだから何でも自分でしなさい。更に弟たちの面倒も見なさい」そう言われながら育ちました。自分自身が学校でいじめにあい、もうどうにもならない・行きたくない…と助けを求めた時でさえ「自分で学校に行って解決してきなさい」それが親から言われたことでした。私は、一体自分が何者なのか、親とはあるいは兄弟とは一体何なのか・誰なのか…そして私は何のために生まれてきたのだろうか…と、学校にも家庭にも居場所のなかった私はどうやったら自分の人生を終わらせることができるのだろうかということを考えるようになっていきました。

 しかし1つだけ私が私として…つまりお姉ちゃんでもなければ学校に行っていない子でもない、玉置千鶴子としていられる場所がありました。それが教会という場所でした。家庭で埋めること、あるいは発散することの出来なかったいろんな感情・思いをいろんな人に受け止めてもらいました。その一つひとつの出会いを通して、私は私として生きていていいのだ、私の居場所は確かにあるのだということに気づかされていきました。その出会いの1つに敬和の卒業生との出会いもあり、私はこの敬和学園に入学をし、3年間寮生活を送りました。一生徒として、一友人として、一後輩として、一先輩として、一〇〇として…いろんな私が存在していました。そして今もいろんな私が存在しています。

 モーセという人もエジプト人に虐げられ強制労働を強いられていたヘブライ人として生まれながら、一方で虐げていた側・エジプト人として育った中で「わたしは何者でしょう」と問わずにはいられない様々な思いを抱えながら歩んだ人でした。しかし「わたしは必ずあなたと共にいる」あるいは「あなたたちはこの山で神に仕える」と言って、一緒にいるよ・あなたの居場所はここだよ、との神の言葉あるいはその後のいろんな人たちとの出会いの中で、人生の歩みを積み重ねていきました。皆さん一人ひとりも決して一面的ではなくいろんな自分の姿があるはずです。一つひとつがどれも大切な皆さん自身の姿です。それを受け止めてくれる人が、場所が皆さんにはあります。ですから自分が思い描いた通りだったとしても、あるいはたとえ自分が思い描いた通りでなかったとしても、あるいはまだ自分は〇〇ですと今は自信を持って答えることが出来なかったとしても、あるいはこの場所を離れていくとしても、皆さん一人ひとりはそのままに大切な存在です。これからもいろんな自分に、あるいは他者に出会っていってください。そのことを通してきっと…あるいは改めて、自分も他者も大切な存在であるということや居場所を皆さん自身が一緒に作り出す一人ひとりになれますようにと願っています。