お知らせ

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2024/06/17

今週の校長の話(2024.6.17) 「自由について」

【聖書:マルコによる福音書 12章 17節】

イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの教えに驚き入った。

 

 

今、世界ではさまざまな分断が生まれています。

その中でも特に心配なのが、強大な権力をもつ独裁的な政治家が支配する国と民主主義の国との分断・対立が進んでいることです。

一部の権力者が国民を支配する国を専制国家と言います。

それに対して、日本のように権力者の権限が憲法によって厳しく制限され、国民が主権者である国を民主主義国家と言います。

少し前までは、専制国家はいずれ行き詰まり、多くの国々が民主主義の国になるだろう、と考えられていました。

しかし、現実はそう簡単ではありませんでした。

今、専制国家が勢力を増しつつあるようにさえ思えます。

 

専制国家と民主主義国家の一番大きな違いは、個人の人権、言論の自由、表現の自由が認められているか、どうかです。

例えば専制国家では、国の権力者を否定することは許されません。

言論の自由が認められていないからです。

日本では総理大臣の悪口を言っても、逮捕されることはありません。

しかし、専制国家では、見つかれば逮捕され、刑務所に入れられてしまうこともあります。

 

日本でもかつて、言論の自由が認められない時代がありました。

15年戦争と言われる1931年から1945年、日本が軍国主義であった時代です。

日本は、中国やアジアの国々、そしてアメリカと戦争をし、多くの犠牲者を出しました。

当時、日本は天皇制によって国を統制しました。

戦争が激しくなってくると、天皇陛下のために命をささげ、国を守ることが、日本中の学校で徹底的に教えられました。

天皇は神格化され、神とされました。

天皇について否定的なことを言うと、「不敬罪」(=天皇を敬わない罪)という法律によって、厳しく罰せられました。

その状況は1945年、日本がアメリカとの戦争に負けるまで続きました。

戦後、私たちは新しい憲法のもと、80年かけて、民主主義国家を築いてきたのです。

 

先日、行われたフェスティバル(学園祭)では、敬和学園に自由の風が吹き渡りました。

誰かに強制されるのではなく、自分の手で、自分たちのフェスティバルを創ろう、

そういう思いで、一つひとつのプログラムに取り組む敬和生の姿をたくさん見たからです。

敬和生一人ひとりが主人公でした。

キリスト教学校である敬和学園は、これからも自由を大切にする学校でありたい。

そのためには日本という国がこれからも人権と言論の自由、表現の自由を守る国であり続けなければならない、あらためてそう思いました。

 

ところで、民主主義とキリスト教との間には歴史的にも深い関係があります。

そのことを示す、500年ほど前、日本の戦国時代に起きた、ある出来事を紹介します。

豊臣秀吉が朝鮮戦争のために九州の博多を訪れた時、秀吉の夜のお供をする娘を探すために、一人の側近が島原に出かけて行きました。

ところが、娘たちは皆、秀吉という最高権力者の命令に「嫌だ」と答えます。

驚いた側近が「なぜか」と問うと、「私はキリシタンですから」と答えたといいます。(キリシタンとはクリスチャンのことです。)

 

これは、秀吉にとって衝撃的な事件となりました。

夜のお供をするなど、今ならばセクハラで、とんでもないことですが、当時は違いました。

天下人、秀吉の命令は絶対でした。

それを十代の若い娘が拒んだのです。

秀吉は、そのような精神を与えるキリスト教に恐れをおぼえました。

この報告を聞いた夜に、「伴天連(ばてれん)追放令」を発令した、といいます。(伴天連とは外国人宣教師のことです。)

この法令によって、キリスト教は日本で布教することが禁止されました。

相手が権力者であっても、それが理不尽な要求であれば、それに抵抗するこの娘たちの精神が秀吉を恐れさせました。

この精神はキリスト教によってもたらされたものです。

ヨーロッパやアメリカで、この精神が、やがて人権の尊重、言論の自由へと発展します。

 

さて今日の聖書です。お話の前後を補います。当時イエスが住んでいた地域はローマ帝国によって支配されていました。イエスを陥れようとする人たちが来て、大勢の人の前でイエスに質問します。

「ローマ皇帝が課する税金を納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょか。」

重い税金に苦しめられていた人々は、イエスの答えに注目します。

もしイエスが、納めるべきだ、と答えれば、民衆はイエスから離れて行くに違いない、そのように、この質問をした人たちは考えました。

また納めるべきでない、と答えれば、イエスをローマ当局に訴え、捕えることができると考えました。

 

イエスともノーとも答えられない、状況の中で、イエスは何と言われたでしょうか。

「デナリオン銀貨を見せなさい」と言われました。

この硬貨には、当時の皇帝ティベリウスの肖像と、「皇帝ティベリウス、崇拝すべき神の子」という文字が刻まれていました。

イエスは問います、「これは誰の肖像か。」「皇帝のものです。」そこで言われたのが今日の聖書です。

皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」イエスの見事な答えに、人々は驚嘆した。このようなお話です。

 

デナリオン銀貨には皇帝の肖像が刻まれていました。ですから、それは皇帝のものです。税金は納めなければならない。

しかし、私たち人間には、皇帝や国の支配者の像など、刻まれていません。だから、私たちは、彼らのものではありません。

私たちには「神の像」が刻まれているのです。

「人は、神にかたどって創造された」、と聖書(創世記1章27節)には記されています。

私たち人間は、神によって創られ、「神の像」、「神の姿」が刻まれている存在です。

私たちは、権力者のものではなく、神のものなのです。

だから、私たちは神以外に、どんな権力者も恐れる必要はありません。

秀吉の命令に従わなかった、あの島原のキリシタンの娘たちの勇気もここから生まれているのです。

その精神にこそ、私たちの自由の根拠があります。

キリスト教学校とは、その信念に基づいて教育に取り組む学校です。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返す」、この言葉の意味を、あらためて考える私たちでありたいと願います。

 

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今朝の敬和