毎日の礼拝

毎日のお話

2024/05/17

大塚 忍(聖書科・労作科)

【聖書:マタイによる福音書 20章 12~14節】

 『最後に来たこの連中は、一時間しか働かなかったのに、丸一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いをなさるとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

 

 4月から労作を担当させていただいています。若いころは農作業などにはまったく関心がなかったのですが、年を重ねるにつれて少しずつ自然や植物、農作業などにも関心を持つようになってきました。不思議なことです。

 以前、ポインセチアという植物を育てていたことがあります。クリスマスの時期に咲く花です。この花は、60日の間毎日12時間ぐらい暗い場所に置かなければなりません。わたしは、毎日夕方、暗い倉庫にポインセチアを入れていました。植物によっては、人間の手が必要になります。わたしの場合は1日10分くらいでしょうか。植物のためにわずかな時間を割いています。朝早くから夕方まで1日中、田んぼで働いている農家の方々の姿をみかけることがあります。野菜を作っている農家の方々も同じです。けれども人間には休息が必要です。人間は作物から離れている時があるのです。その間に、作物、植物が放置されているわけではありません。植物のために働いてくださってる方がいらっしゃるのです。

 イエスは言います。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」(マルコ4・26−28)。確かに人間は種を蒔いて、植物の世話をする。しかし、その植物を見守り育ててくださるのは神様だとイエスは信じているのです。ある時、イエスは敵対するユダヤ人と論争をしていました。ユダヤ教徒たちは、神様が世界を創造されて休まれた日を安息日として定めていました。安息日というのは、人間が仕事を休まなければならない日でした。イエスはこの日に、ある人の病気を治してしまったのです。病気を治すということは労働です。ユダヤ人は安息日に労働するイエスに文句を言ったのです。その時にイエスはこう言ったのです。「わたしの父は今もなお働いておられる。だからわたしも働くのだ」(ヨハネ5・17)。神様はわたしたちのために休むことなく働いてくださっている。だから、わたしも苦しむ者のために働くのは当然でしょう、と言ったのです。

 

 本日の聖書箇所はイエスが語った譬え話の一部です。あるところにぶどう畑を持っている主人がいました、とイエスはこの譬え話を展開していきます。その日はぶどう畑の中で最も忙しい日でした。多くの労働者が必要だったので、ぶどう畑の主人は、働いてくれる人を探すために広場へと出掛けて行きました。朝早いうちに出掛けていって広場にいる人たちに声をかけて自分の畑で働いてくれるように頼みました。主人と労働者の間には1日1デナリオンという賃金で契約が成立しました。忙しい日でした。労働者を確保するために、主人は9時にも出掛けていきました。そして労働者を自分の畑に送り込みました。それでも労働者が足りません。主人は12時、そして3時にも出掛けていきました。さらにイエスは言います。この主人は5時にも広場に出掛けていったと。

 朝早くぶどう園に出掛けていった人はどれくらい働いたのでしょうか。10時間近く働いたのではないでしょうか。5時にぶどう園に到着した人はどれくらい働いたのでしょうか。1時間、2時間くらいだったのかもしれません。イエスはこう話した後、賃金を払う時がきたと語ります。一番最初に賃金が支払われたのは5時にやってきた人たちでした。この人たちには1デナリオンが支払われました。この人たちよりも長い時間、働いていた人たちは期待を膨らませました。あの人たちが1デナリオンなら自分たちは、より多く賃金をいただけるに違いない、と。しかし、イエスは、ぶどう園の主人はすべての労働者に同じ1デナリオンを支払ったと語ったのです。

 この主人は5時までの間に広場に4回出かけました。主人はただ自分の畑で働く労働者を探していただけではなかったのです。広場には他のぶどう園の主人たちも労働者を求めてやってきていました。しかしその広場には誰からも声をかけてもらうことができなかった人たちがいたのです。その人たちが5時まで残っていたのです。イエスの譬え話に登場する主人は、この人たちのことが気になって仕方がなかったのです。最初に主人と契約できた人たちは、前の日も働くことができた人たちです。前日も賃金をいただいて食事をとり、睡眠も十分とることができた人だったのではないでしょうか。しかし、5時まで残らざるを得なかった人たちは、前日も仕事をもらえなかったのかもしれません。賃金をもらうことができず、食事をとることもできなかったかもしれません。お腹が空いて眠ることもできません。弱々しい姿で広場に佇んでいたのです。多くの主人たちはこの人たちに声をかけることはありませんでした。労働力にならないと判断したからです。しかし、声をかける人がいたのです。この主人は最後に「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と言ったのです。

 イエスが語ったこの譬え話は2000年間、語り継がれてきました。語り継がれることによって失業保険、健康保険などという制度が生み出されていったそうです。私たちは病気になれば病院に行きます。診察を受け薬をいただくこともあります。医療費、薬代を私たちが全額支払っているわけではありません。健康保険制度によって、自分の支出分以外を誰かの働きによって賄われているのです。あなたは失業してしまったのですね。仕方がないですね。あなたは病気になってしまったのですね。仕方がないですね。自力で生きてください、などという社会ではなくなっているのです。自分が苦しい生活をしている時には、誰かの助けによって生かされ、自分が健康に過ごすことができる時には、誰かのために働くという社会が生み出されたのです。

 イエスは、自分を生かし、自分を支え励まして下さるのは神様であるということを知っていました。神様が休まずに働いて下さるから自分は生かされているということを知っていました。イエスは言います。「神様が働いてくださっているからわたしは生きている。だからわたしは働くのだ」と。わたしたちもまた神様の働きによって生かされています。日々の生活の中で神様の働きに気づくことができずにいる者ですが、立ち止まって神様の働きを思い起こしながら感謝する時も必要なのではないでしょうか。今日は全校労作の日です。それぞれの場所で働く時が与えられました。その場所に生きる人たちはどのような方々なのでしょうか。神様がわたしたちに働き、生かしてくださっていることを思い起こしながら、与えられている力をその方々のために用いながら過ごしたいと思うのです。