自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2024/05/08
【聖書:コリントの信徒への手紙一 13章 2節 後半】
「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」
今日の礼拝のお話は、日本語で、やっていることは同じなのに目的や対象が変わると、言葉が違うことがあります。そのことについて是非皆さんと共有したいと思ってお話を作りました。
「見守る」という言葉があります。辞書で調べると①そのものが安全であるように、よく注意してみる。②事の成り行きを注意してみる、と書かれていました。それに対して、「監視」という言葉があります。辞書で調べると、何か良くない事態が起きないように、対象の状況や事態の推移などを注意してみていることだそうです。「見る」という行為は変わらないけれど、目的が違うため、言葉が分けられています。
「教育」という言葉があります。「教育」という言葉を調べると、一般的な(その方面の)知識や技能の習得、社会人としての人間形成などを目的として行われる訓練。特に学校などで行われるものを指すとあります。一方、「調教」という言葉があります。辞書で調べると、馬、(犬や猛獣など)を訓練する事。と書いてありました。教育と調教の違いは、少し語弊があるかもしれませんが、訓練するということは変わらないけれど、その対象が、人間か動物かによって使いわけられているみたいです。もちろん教えることの中身は違うとは思いますが。
さて、「見守り」と「監視」この二つは生徒の皆さんにとってとても大きな違いがあること思います。教師のことを嫌いな生徒は、特に1年生に多いと思うんですが、そういった生徒は、教師からの視線を監視と感じていることがあります。実際に監視されたことがある人もいるかもしれません。監視されるというのは、自分自身が人から信用されてないという事なので、絶対に気持ちのいいものではありません。でも、敬和の3年生にもなると、あまり教師が嫌いだという生徒を聞きません。もちろん、人間として合う、合わないはあると思うんですが、それは個人の問題であって、教師としてのくくりで、教師が嫌いという事はあまり聞かなくなります。
監視は、見ている対象に対して、信頼がなくなったとき、その目線がいつの間にか監視に変わるんだと思いますが、監視している側の精神状態も実はあんまりよくないと思います。その対象を常に疑い続けるというのは、とても疲れるし、なんとなく自分の心がすさんでいくように思います。
それに対して、「見守り」は見ている対象に対して、危なくなったら助けるために行ったり、たとえ失敗したとしても、その経験が財産になるであろうとおもい声をかけなかったり。見ている対象に信頼感があり、そして成長するためのヒントを見つけるための眼差しが「見守る」という事だと思います。
また、「教育」と「調教」は対象が人か動物かに分かれるものの訓練であると辞書には書かれていました。犬を飼ったことある人はどれくらいいますか?私も子供の頃に犬を飼っていました。名前は「マーシャ」と言ってビーグル犬の血が入った雑種で、ほんとにかわいかったんです。もう随分前に亡くなってしまったんですが。犬はしつけ、言い換えると(調教)をします。私の家では、ご飯を与える前に、お座り、お手、お回り、伏せ、お座り、待て、(ここでご飯を目の前にして待たせます)ちょっとして「よし」っと許可を与えてから、ご飯を食べるという事をしていました。調教をかわいそうと感じる優しい人もいるかもしれんが、人と犬とが共存するためには、やはり、人に嚙みついたり、危害を加えたら困ります、また、玉ねぎは確か犬は食べられないのでハンバーグは食べさせられなかったと思いますが、勝手に悪いものを食べて病気になっては困ります。だから、調教はある意味、飼い犬の為になっている訓練になります。
私は公の機関で人に対して調教に近いことをする仕事の方と話をしたことがあります。それは、義務教育中で、家庭や出先で、言う事を聞かず、人やモノに危害を加えている、犯罪に近い行為をしている子供たちが、児童相談所等の判断で、子どもを保護する自立支援施設の教師の方です。言う事を聞かない子供に、どのように言うことを聞かせるのか聞いたところ、集団生活の中で、悪い事をしたとき、小部屋で話を聞き、正直になるまで、ご飯を食べる時間を遅らせたり、夜遅くまで睡眠時間を削って話を聞くことをしているとのことでした。今から8年くらい前なので、今はどうなっているのか分かりませんが、当時はそのように話をされていました。それを聞いて、私が犬にしていた「しつけ」、「調教」と変わらないと思いました。しかし、人間社会の集団で生きていくために訓練しているので「教育」だとも言えます。でもやっぱり調教に近いなーと正直感じました。
それに対して「教育」は読んで字のごとく、教え育むものです。私たち教師が教える事、教師だけでなく、友人や先輩が教えてくれること、それを受けた人が、育み、成長する。「教育」とはそういうものであると思います。そして、どのように自分自身を育み、成長するのかは、その人の自由であり、興味関心、そして知識や成長の広がり方も自由です。調教に自由はありませんが、教育には自由があります。
さて、皆さんに必要なのは「見守り」ですか。それとも「監視」ですか?皆さんに必要なのは「教育」ですか?それとも「調教」でしょうか?自分探しの敬和学園、他には生徒が主役の敬和学園ともいわれています。そんな敬和に「監視」「調教」はふさわしくないと思います。主役の生徒を監視する。主役の生徒を調教するっていうと、なんだそれはと思いませんか?少なくとも私はみんなを信頼し、皆さんに向ける視線は「見守り」でありたいと思いますし、行うことは「教育」でありたいと思います。そのためには皆さんの協力が必要です。
ほんの少しでも構いません。私たち教員、教員だけでなく周囲の友人、知人の信頼にこたえようとする気持ちを持っていてほしいと思います。信頼がなくなった先は、教師、生徒間だけでなく、学園全体で「見守り」は「監視」へと変化し、「教育」は「調教」へと変化します。そんな学校で私は働きたくありません。
今日の聖書の箇所は57回生の学年の聖句です。山をも動かす信仰も愛がなければ意味がない。愛は大切にする気持ちです。教師、生徒の垣根なく、お互いを大切にできるそんな1年になることを願います。