自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2024/05/01
【聖書:コリントの信徒への手紙二 4章 18節】
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
おはようございます。
4月から敬和学園で働いている大塚忍といいます。1年生、2年生の労作を担当しています。わたしも敬和学園の卒業生です。わたしが高校生の頃はチャペルがなかったので、体育館の床に座って毎朝の礼拝が行われていました。わたしは高校に入学するまで10年間剣道を続けてきました。将来は地元に戻り県警の機動隊に入って全日本選手権に出るのが夢でした。けれども、この学校に入学してかなり早い段階で、キリスト教の牧師という道を志すようになりました。けれども、牧師となると決めたのですが、何かが足りないと感じることがありました。わたしは、父と母の影響で生まれた時からずっと教会に通っていました。教会では、神様がわたしたちと一緒にいる、イエス様がわたしたちと一緒にいてくださる、というようなことを聞くことがありました。けれども、神様がわたしたちと一緒にいる、イエス様が一緒にいるということが理解することができませんでした。ある時、敬和学園高校の礼拝で新潟市内の教会の牧師さんがお話をしてくださったことがあります。牧師さんは「神様が共にいる、イエス様が共にいてくださるということを理解することは難しいことなのかもしれません。神様、イエス様が見える方ではない。でも神様、イエス様を感じることはできるのではないでしょうか」と。何か強烈な体験、目に見えるしるしこそが信じるきっかけになるとわたしは考えていたました。しかし、その牧師さんから見えない存在を感じることが大事なのだということを教えていただきました。
コリントの信徒への手紙二4章18節を読んでいただきました。この手紙を書いたのはパウロです。2000年前の人で、イエス・キリストを外国人に伝えようとした最初期のキリスト教の宣教師です。しかし最初からキリスト教の宣教師であったわけではありません。この人は熱心なユダヤ教徒でした。当時のユダヤ教徒というのは、イエス・キリストを信じるクリスチャンのことを邪魔な存在と感じていました。ユダヤ教というのは律法というユダヤ教の掟を大事にしながら生きていました。ユダヤ教徒たちは、律法を守ることによって、神様に喜ばれる、正しい人間として生きることができる。救われると考えていたのです。けれども、イエスは、律法よりも大事なことがある、と考えていました。イエスはこんなことを言っています。神様は悪人にも善人にも太陽を登らせてくださる。正しいものにも、正しくないものにも雨を降らせてくださる、と。わたしの好きな言葉です。ユダヤ教徒たちは、絶対に律法を守らなければなりませんでした。イエスもユダヤ人ですから律法を蔑ろにしていたわけではありません。しかしイエスは新しい考え方を示したのです。律法を守ることができない人間、律法を守らない人間であっても、神様は等しく人間を大事にしてくださる方なのだと。イエスは律法よりも大事なものがある。律法を守ることができなかったとしても神様はあなた方を見捨てるような方ではない、と言ってしまったのです。パウロはこの言葉を許す訳にはいかなかったのです。この言葉を聞いてキリスト教徒を迫害するようになっていったのです。あちこちに出かけ、キリスト教徒たちを逮捕し処刑することもありました。パウロはキリスト教徒が大嫌いでした。けれども、彼らを迫害し、牢屋に送るという生活を送る中で、頻繁に彼らと接する機会が増えていったのです。知りたくもなかったと思うのですが、彼らの考え方に触れる機会も増えていったのです。自分はユダヤ教徒として正しいことを行なっている。自分はぶれることがない、と考えていたに違いありません。しかし、イエスを信じる人たちの考え方に触れることによって、少しずつ揺さぶられていったのです。イエスを信じる人たちの考え方にも正しい部分があるのでは、そう思うようになっていったのです。けれども彼は向こう側の考え方に引きずられないようにしていたのです。そんな時に、彼は幻の中で、イエスという方の声を聞くことになったのです。使徒言行録9章にそのことが記されています。この声を聞くことによって彼は180度の方向転換をするようになったのです。律法を守るというのは人間自身の努力が重要です。しかし彼は、人間の力ではなく、神様の愛によって自分は生かされているということに気付かされていったのです。パウロは生まれた時からユダヤ教徒の家庭に育ち、ユダヤ教の律法を忠実に守りながら生きてきました。イエスの弟子たちに出会うまでは、イエスの声を聞くまでは、彼はまっすぐに脇目もふらずに自分の力のみを信じて歩むことができていたのです。しかし、新しい価値観が彼の前に立ちはだかったのです。これからもまっすぐに、自分の思うとおりに進むためには、これまで通り古い価値観を土台にして生きればよかったのです。でも彼は躓いてしまったのです。躓つくということは否定的に取られてしまうことも多いのですが、躓くということは決定的に重要な変化をもたらすこともあるのです。パウロは「見えるものではなく、見えないものに」という言葉を残しました。わたしたちもまた、これまでの自分を形成してきた価値観を大事にして生きようとします。けれども、時に私たちにぶつかってくる新しい価値観もあるのです。それは見えないものです。見えないので、無視することもできますし、なかったことにすることもできます。しかし、この新しい価値観がわたしたちを揺さぶり、わたしたちを新しく変えてくれることがあるのです。この学校で与えられる出会いもこれまでの価値観を揺さぶります。わたしも30年以上前にその出会いに揺さぶられました。苦しいので抵抗もしました。けれども、その新しい価値観はわたしの古い価値観を破壊し新しく作り変えてくれたのです。「見えるものではなく、見えないものに目をそそぐ」。見えないものを感じながら、見えないものが指し示そうとしている道を探し続けながら歩んでいきたいと思うのです。