自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2009/07/01
ヨハネによる福音書13章7節
有川浩という女性の作家がいます。
図書館戦争というタイトルのシリーズで人気のある作家です。
この人が「阪急電車」という本を書きました。
阪急電車というのは京都大阪神戸の間を走っている私鉄です。
阪急電車の支線の一つに今津線があります。
宝塚歌劇団で有名な宝塚から西宮北口、通称「西北」の間を走っています。
有川浩の「阪急電車」は今津線を舞台にした物語です。
今津線沿いには学校がたくさんあって、みなさんの先輩が指定校推薦で入ったキリスト教の大学もいくつもあります。
私の実家は今津線の真ん中の小林駅から歩いて3分です。
登場人物が次々につながりながら話が展開していくのですが、その中でミサという大学生が登場します。
彼女が始発の西宮北口から電車に乗ったすぐ後に、おばさんの団体5人ががやがやと乗り込んできて向かいに座ります。
おばさんたちはそれぞれおしゃれをしていて、洋服、アクセサリー、バッグも一目でブランド物とわかります。
ミサは一瞬しまったと思います。
おばさんたちの周囲の乗客の迷惑など全く考えない声の大きな会話が、聞きたくないのに聞こえてきたからです。
次の瞬間おばさんのうちの一人がドアー越しに叫びました。
「イトーサン、イトーさん、こっちこっち、席まだ空いているわよ」。
そういいながら、おばさんは信じられない行動に出ました。
それは空いていたミサの隣の席に若い女性が座ろうとしていたのですが、その直前に持っていたブランド物のバッグをその座席に放ったのです。
つまりミサの隣の席をイトーさんに確保するためにブランドバッグを投げたのです。
おばさんはいいました。
「早く早く、席取っといてあげたから」。
おばさんのあきれた行動のために席に女性は座れなくなります。
ミサは「あんたらなんちゅうことすんねん」と思いました。
そして声を上げそうになります。
ところが席を取られたキャリアウーマン風のその女性はさりげない手振りでミサを制し、笑みを含んだ声でささやきました。
「素敵なブランドが台無しね」。
その行動と言葉を目の当たりにして、ミサは自分が「素敵なブランドが台無しね」とつぶやいて隣の車両へと歩き去った女性に共感できる側に、今自分がいられることによかったと思います。
というのは、みっともないと感じるおばさんの行動と同じことを彼女自身高校時代に電車の中で繰り返していたからです。
ミサは友だちと二人電車通学をしていて、お互いが席を確保するために、たとえ電車が込んできたとしても、自分の席の隣にかばんを置いていて、もうひとりが乗り込んできたら、それをどけて座らせるということをしていたのです。
そんなある日、目の前に立ったおじいさんにいきなり怒鳴られます。
「何をやってんね あんたは。混んできとんのに 何でそのカバンを一人前に席に座らせとんねん」。
ミサは思わず弁解をします。
「あ、これは友だちのカバンで,友だちが後から来るんです。友だち そうじ当番で疲れて帰ってくるから。」
「やったら あんたが席かわったったらええやろが。言い訳すな」。
ミサは見知らぬ老人によって、その時までお互いが席を確保する方法として最高と思っていたことが、他人から見ればいかにやらしい、小ざかしい行動だったかを思い知らされることになったのです。
ミサは見知ら老人が怒鳴りつけるほど、自分たちの行動が目立っていたこと、それもひどくみっともなく目立っていたことにはじめて気づかされたのです。
おばさんの行動を目の当たりにしてミサは思いました。
わたしにはわたしの行動を怒鳴りつけてくれる人がいてよかった。
人が座りかけているところにバッグを投げて席を取り上げるようなおばさんと同じく仲間でなくてよかった。
「考えてみたら、わたし、けっこう知らん人に救われてんねんなぁ」。
ミサは自分があっち側の人間でなくてよかったとつくづく思わされます。
あっち側というのは、席を確保するためなら、バッグを投げるおばさんの側です。
自分のしていることがいかに恥ずかしいか判らないまま生きている人間です。
もし、高校時代に大勢の人がいる前で見知らぬ老人に怒鳴られなかったら、今自分はおばさんの側の人間のままであって、自分のしていることがいかに恥ずかしいわからないまま生きているだろうと思いました。
ミサはおばさんたちに心の中で叫びました。
「あんたら、今日食べに行く宝塚のレストランの話をしている。決して安くない店で、土曜のランチにいける。お金に不自由はしてないんやろ。けど あんたらにはおれへんかったんやろな。あたしのことこっぴどく叱ってくれた 知らんおじいちゃんとか」。
敬和学園は不自由な学校だと思います。
思うようにならないことがたくさんある学校でしょう。
けれど、真正面から叱ってくれる人には決して不自由しない高校です。
自分の周りにいる人が、自分の存在や行動に目をそらすのではなく、それを正面からだめなものはだめ、といってくれる仲間、教師には不自由しない学校です。
そしてほめられるべきときには、そこまでいうかと思えるほどの言葉でほめてくれる人には不自由しない学校です。
ミサは自分がさまざまな人に救われている、さまざまな言葉に救われていることに気づかされるのですが、それは自分にとって、心地よい存在ではなく、むしろうっとしい存在であったり、見たくない存在であったり、いわれたくない言葉であったり、聴きたくない言葉であったり、恥ずかしい思いをさせられる言葉だったことにです。
ミサは高校時代に見知らぬ老人に言われた一言によって、人間らしさを常に意識することのできる人間として生きることができました。
わたしたちは後になってわかることが多いのです。
大事なことほど後にならないとわからないのです。
今日の聖書のイエス様はまさにそのことを言っています。
あとになってようやくわかるのが、わたしたちの現実です。
わたしたちは所詮その程度何かもしれません。
けれど、そういうわたしたちだからこそ、逆に大事なことはあとになってわかるということを、今心の中にしっかり刻むことができれば、自分に向けられるさまざまな言葉を自分の生きる力にできる、成長の力にできるということです。
自分に語られる言葉をしっかり聴き、受けいれられることのできる人になりたいと思います。