自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2023/04/10
【聖書:マタイによる福音書 9章 9節】
イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
今日はウェルカムデーです。先週は、それぞれ学年ごとに新年度の準備をしていましたが、いよいよ新入生と2,3年生が対面する日を迎えました。
新入生は、先週、たくさんお話を聞いたり、歌の練習をしたり大変でしたね。
2年生は始業日にクラス発表があり、新しいクラスがスタートしました。
3年生もフェスティバルに向けて総合チーフをはじめ様々なチーフが決まりました。
それぞれ、新年度に向けての準備ができました。
そして今日はウェルカムデー、いよいよ1年が始まります。
さて、4月と言えば出会いです。
皆さんも、これまで、さまざまな出会いを経験してきたことでしょう。
幼稚園や保育園、小学校、中学校などで、たくさんの友達や先生との出会いがあったはずです。
マルチン・ブーバーという哲学者は、ある本(「我と汝」)のなかで、次のような言葉を記しています。
「はじめに出会いがあった」
私たちの人生を、最初から最後まで支えてくれているものは、出会いである、というのです。
私たちは人生でさまざまな経験をします。
しかし、それぞれの経験の初めには必ず、「出会い」という出来事がある、というのです。
たしかに言われてみれば、そのような気がします。
今日の聖書から、出会いについて考えてみたいと思います。
「マタイの召命」と呼ばれる箇所です。
マタイと言う人が収税所に座っています。収税所とは税金を徴収するところです。
マタイは徴税人といって税金を取り立てる仕事をしていました。
イエスが生きたユダヤの国は、ローマ人によって支配されていました。
ユダヤの人々は厳しい税金の取り立てに苦しめられていました。
徴税人とは、ローマ人のために、同胞であるユダヤ人から税金を集める人です。
その多くは私腹を肥やしていました。
当然、ユダヤ人からは裏切り者と見なされ、軽蔑されていました。
このような徴税人であるマタイにイエスは呼びかけたのです。「私に従いなさい。」
なぜ、イエスが、マタイに声をかけたか、聖書には何も書かれていません。
イエスはマタイを見たとき、言葉で表現できない何かを感じたのだと思います。
出会いに理由はありません。
マタイは、イエスの呼びかけに従います。
聖書は簡潔に次のように述べます。「彼は立ち上がってイエスに従った。」
これがイエスとマタイの出会いでした。
この出会いの後のことが、今日の聖書の続きに記されています。
イエスはマタイの家で食事をします。
そこには多くの徴税人や罪人たち(=ユダヤ教の戒めを守らない人たち)が同席しています。おそらく彼らはマタイの友達だったのでしょう。
それを見た人が、イエスの弟子に質問します。
「なぜ、あなたの先生は徴税人などと食事をするのか。」
それを聞いたイエスは次のように答えます。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである。」
悩みや苦しみを抱えている人、差別されている人のために自分は来た、そう言って、イエスは迷うことなく、彼らの側に立ちます。
その後、マタイは徴税人の仕事をやめ、イエスの弟子になりました。
イエスとの出会いが、彼の生き方を180度変えたのです。
彼は、後に「マタイの福音書」を書いた、と伝えられています。
以前、読んだ本(「侏儒の言葉」芥川龍之介)に、人の運命を決めるのは、「遺伝・境遇・偶然」の3つである、と書かれていました。
「遺伝・境遇・偶然」。どういうことでしょうか。
「遺伝」とは、親から受け継がれるDNAのことです。
身体の特徴、性格や能力などの多くは親からの遺伝によって決められます。
「境遇」とは生まれてくる環境のことです。
どのような時代に、どの国に生まれてくるか、そしてどのような家庭に生まれてくるか、例えば、お金持ちの家に生まれてくるか、それとも貧しい家に生まれてくるか、それらは誰も自分で決めることはできません。
しかし、このような環境がその人の人生に大きな影響を与えることは明らかです。
最後に「偶然」です。
ある意味で、全ての出会いは偶然です。
ある人に出会おうと思って、その人と出会った人はいません。
気が付いたらその人と出会っていたのです。
自分の家族のことを考えてみてください。
この両親のもとに生まれて来ようと思って、生まれる人はいません。
逆に、こういう子を産みたいと思って子どもを産む親もいません。
生まれて初めて、親子は対面するのです。
たしかに出会いは、このように偶然によってもたらされます。
しかし、それだけでしょうか。
偶然に偶然をいくら積み重ねてみても、偶然は偶然のままです。
人の出会いには、偶然を超えた何かが働いているように思えます。
「遺伝・境遇・偶然」も同じです。
これらがどんなに力をもっていても、そこには何か決定的なものが足りません。
人生には、これらだけでは説明がつかない何かがあるからです。
偶然を、本当の出会いに変える何かです。
イエスとマタイの出会いを思い出してください。
イエスは、悩みや苦しみを抱えている人、差別されている人の側に迷うことなく立ちます。
イエスのそのような生き方がマタイを変えました。
「私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである。」
この言葉に示されているのは「神の愛」です。
偶然を、意味ある出会いに変えるのは「神の愛」です。
「神の愛」が全ての出会いを支え、私たちの人生を意味あるものとしてくれます。
マタイはイエスと出会い、それまでの生活を変え、新しい生き方へと招かれました。
私たちも、新年度が始まる今日のウェルカムデー、一人ひとりが新しい生き方へと招かれる者でありたいと願います。
そして今日という日が、豊かな出会いと新しいスタートの日となることを願います。
今朝の敬和