お知らせ

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2023/04/05

今週の校長の話(2023.4.5)「神の国」ー56回生入学祝福礼拝よりー

【聖書:ルカによる福音書 17章 20節~21節】

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。

 

 

56回生の皆さん、保護者の皆さま、ご入学おめでとうございます。

このようにして、共に入学を祝うことのできることを嬉しく思います。

 

さて、新入生の皆さんは様々な思いでここに座っていると思います。

友達ができるだろうか、勉強について行けるだろうか、先生はどんな先生だろう、様々な心配や不安でいっぱいだと思います。

 

敬和が発行している「600 Reviews」というパンフレットがあります。

その中に「中学時代の自分へ」というページがあります。

それは、「もし、今、中学時代の自分へメッセージを送るとすれば、どんな言葉を送りますか、」というアンケートへの在校生の回答を集めたものです。紹介します。

 

「なんとかなっている、大丈夫!」

「友達できたよ。」

「いまでも不安になる事はあるけど、周りの人がサポートしてくれるよ」

「安心して入学しな、学校、楽しいよ。」

「高校を敬和に選んでくれてありがとう。」

 

これらの言葉は、先輩から新入生である皆さんへのメッセージとも言えます。

私は、皆さんが3年後、中学生の自分に向けて、この先輩たちと同じようなメッセージを送ることができるような学校生活を送って欲しいと願っています。

敬和学園に入学してよかった、3年間、楽しかった、中3のときの自分の選択は間違っていなかった、そのように後輩たちに自信をもって言えるような学校生活です。

私たち教職員はそのために、全力で支えたいと思います。

 

さて、先月、3月1日、このチャペルにおいて第53回卒業祝福礼拝が行われました。

その中で、卒業生代表の方が、次のような言葉を述べました。

この方は、母親も敬和の卒業生で、寮生として神奈川県から入学された方です。

 

自分は3年前、大きな期待をもって敬和学園に入学した。

しかし、コロナのために思っていた高校生活を送ることができなかった。

そのために、悩み、落ち込んでいた。

その頃、母親から手紙が届いた。

そこには、「置かれた場所で咲きなさい。」という言葉が紹介されていた。

私は思った。「自分が置かれた場所、この敬和学園で精一杯、花を咲かせよう」と。

その後、この卒業生は、誰もが認めるような見事な花を咲かせ、卒業しました。

 

「置かれた場所で咲きなさい。」

これは、私たちにとっても励ましになる言葉です。

 

私たちは、敬和学園を「自分探しの学校」と呼びます。

皆さんが置かれた場所、この敬和学園で「自分探し」をしてください。

神様が、あなたをここに招き、導いてくださっているからです。

 

自分探しとは、まだ見ぬ自分を発見することです。

その点、発見は発明と違います。

発明とは何か新しいもの、今までないものを、人の創意工夫によって作りだすことです。

それに対して発見とは、既にそこにあるもの、存在しているものを探し、明らかにすることです。

「自分探し」とは、新しい自分を作り出すことではなく、既に存在する自分を、あらためて発見することです。

 

私は、数学の教員ですが、数学の様々な公式も、発明というよりも発見といった方がよいと思います。

皆さんは、中3のとき「三平方の定理」を習ったと思います。

直角三角形の斜辺の長さを求める公式です。

これを発見した古代ギリシアの数学者は驚いたと思います。

今から2500年以上も前のことです。

彼らは宇宙をコスモスとよび、この宇宙はシンプルで美しい数式によって表現できると考えました。

 

作曲家が今まで聞いたことのない、心奪われるメロディーを作曲したとします。

その時、作曲家は、そのメロディーを自分が作ったとは思わないのではないでしょうか。

むしろ、こんなにきれいなメロディーが、この世界、この宇宙にはある、今、自分は世界で初めて、そのメロディーと出会った、そのように感じるのではないでしょうか。

 

自分を発見すること。私たちの「自分探し」も、これと同じことが言えると思います。

 

ところで、自分探しが、既にあるものを見つけるだけだったら、簡単だ、と思うかもしれません。

しかし、それは間違いです。

科学者が、今までだれも見たことのない物質や法則を発見するために、どれだけの時間と労力をその研究のために捧げるのか、

作曲家が、誰も聞いたことのないメロディーを作曲するために、どれだけ人知れない努力と、産みの苦しみを経験するか、そのことを想像してみてください。

それと同じように、自分探しにも、長い時間と、粘り強い努力、そして諦めない心をもつことが必要です。

皆さんも敬和学園で、粘り強く、自分探しをして欲しいと思います。

その経験は高校3年間で終わるものではなく、皆さんの生涯を導くものとなるはずです。

 

ところで、3年間のコロナ生活は、私たちに、人と直接、触れ合うことの大切さを教えてくれました。

友だちと楽しく、笑い合うことが、どんなにありがたいことかを知りました。

 

今、敬和の庭に桜が満開です。

私は、就職してから、30年以上、毎年、それの花を見てきました。

不思議にそれらは何度、見ても、飽きることがありません。

その年、その年、新たな訪れを感じさせてくれます。

 

私は車の運転中、よくCDを聞きますが、繰り返し聞いていると必ず飽きます。

季節の風景は何度、見ても飽きないのに、CDは、なぜか飽きてしまいます。

 

数学の授業では毎年、1年生の4月に教える内容は、ほとんど変わっていません。「式の展開」、「因数分解」などが中心です。

同じ内容ですから、教えることに飽きても、いい筈ですが、不思議と飽きません。

それは、授業を聞いてくれる生徒が毎年変わり、そこに新しい出会いがあるからです。

 

しかし、ネット配信される録画された授業の場合はどうでしょうか。

たしかに便利な面が、たくさんあります。コロナで学校が休校のとき、全国で活用されました。

また、録画を、自宅で好きな時間に繰り返し視聴することもできます。

学習のために有効なツールと言えます。

しかし、毎回、オンラインの授業ばかりでは、飽きてしまうのではないでしょうか。

 

では、対面授業と録画による授業、また生演奏とCD化された演奏の違いは、どこにあるのでしょうか。

学校の授業でも、また演奏される音楽でも、そこには、二度と繰り返すことのできない、一度限りの時間が流れています。

生徒と教師、演奏者とそれを聞く聴衆、お互いの間には、多少の緊張感を伴いながら、共通の時間が流れています。

 

それに対して、一方通行の情報だけが与え続けられると、私たち人間は、飽きてしまいます。

人間は、一瞬一瞬、新たな命を生きているからです。

 

春に咲く花を毎年、見ても飽きないのは、その年、その年、新たな出会いと発見があるからです。

人と対面で話して飽きないのは、相手の表情に、私たちは、絶えず、新しい命を感じるからです。

その命は、時に、きらきら輝いています。

 

では、その輝きは、どこから来るのでしょうか。

今日の聖書には「神の国」という言葉が出てきます。

「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなた方の間にあるのだ。』

 

「あなた方の間」にある、という言葉が印象的です。

「神の国」は、遠く、空の上にあるのでも、人が死んでから行くようなところでもありません。

それは、あなた方の間、つまり、人と人との関係の中、人と人、人と自然、その間に流れる「生き生きとした時間」の中にある、というのです。

そこにこそ、私たちの生きる喜び、生きる意味が隠されている。そのように聖書は教えてくれます。

 

私たちにとって、ここ敬和学園こそが、共に3年間の高校生活を送る場所です。

「神の国」は、ここにあるのです。

そして、皆さんの3年間の自分探しの旅が、今、この敬和学園で始まろうとしています。

 

56回生の皆さん、そして保護者の皆さま、あらためてご入学おめでとうございます。

皆さま、お一人お一人の歩みが、神様に祝福され、恵み豊かなものとなることを心よりお祈りいたします。

 

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