お知らせ

お知らせ

2023/02/20

今週の校長の話(2023.2.20)「王の王、主の主」

【聖書:ヨハネの黙示録19章16節】

この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されている。

 

3年生が自宅学習期間に入り、世代交代が本格化しています。

先週、ハレルヤの練習で見た2年生の姿に感銘を受けました。

2年生が大きな行事を仕切る場を初めて見たからです。

その仕切りぶりは見事でした。

3年生に代わって、いよいよ2年生が学校の中心に踊り出た、という新鮮な驚きです。

ハレルヤの練習では、パート毎(ごと)に楽譜を準備するなど、細かなところにも、歌う人のことを考えて準備されていました。

まさに新しい時代が始まったことを、鮮烈に印象付けるものでした。

 

2年生は、中学3年のとき、コロナが始まりました。

中学3年という、もっとも充実するはずの最高学年を、厳しい制限の中で生活させられてきました。

受験勉強も大変だったと思います。

コロナにより、さまざまなことをあきらめさせられてきた学年、そして、あきらめを受け入れてきた学年といえます。

どんなことも「中止」と言われれば、それに従わなければなりませんでした。

自分から何かをしたい、とは言えないし、それが求められてもいないことを誰よりも分かっていました。

そのような生活を3年間、送って来たわけです。

 

ところが、ここに来てそれが大きく変わってきました。

2年生が、自分たちから動き始めた。

たしかに、今までは3年生の影になってあまり目立たなかった。

それが変わってきたのです。そのことを強く感じます。

 

その兆(きざ)しはありました。

例えば、入試労作です。

今年の入試労作は、実に素晴らしかったと思います。

受験生やその保護者にも鮮烈な印象を与えました。

受験生の保護者からは、「生徒の礼儀正しい姿と一人ひとりの純粋なまなざしに感動しました、」というメールもいただきました。

その入試労作を仕切ったのは2年生です。

 

生徒会の皆さんが、今年もハレルヤ合唱を行うことを決断したこともすごいと思いました。

2年生はチャペルでのハレルヤ合唱を経験していません。

去年はコロナのためにチャペルでは歌えず、外で歌いました。

そこまでして、ハレルヤ合唱で卒業生を送った3年生を、今度は、自分たちがハレルヤ合唱で送りたいという、2年生の思いに胸が熱くなります。

 

3年生をしっかりと送ることによって、2年生は立派な3年生になることができます。

1年生も自信をもって新入生を迎えることができます。

各学年の出し物もすばらしいものを作ってください。

今まで、コロナのために抑えられていた思いを爆発させてください。

今の皆さんならば必ずできます。

そして、この送る会が新時代のスタートとなることを願っています。

 

さて、ハレルヤ合唱の中で私が、特に好きなのは、最後の方で、King of Kings, and Lord of Lordsと歌う場面です。

ソプラノから始まった歌が、順に他のパートに広がり、最後に全体が一つになる、その時、まるでみんなの声が天に届くようです。

ところでこの King of Kings, and Lord of Lordsという歌詞は今日の聖書からの引用です。

「王の王、主の主」と訳されています。

では、この「王の王、主の主」という言葉にはどのような意味が込められているのでしょうか。

 

そのためにはこの「ヨハネの黙示録」が書かれた時代背景を知る必要があります。

今から2000年前の西暦80年頃、パトモス島に流されたヨハネという人物によって書かれた、と言われます。

その頃、キリスト教はまだ生まれたばかりでした。

当時、世界はローマ皇帝によって支配されていましたが、キリスト教はひどい差別と弾圧を受けていました。

それにはいくつか理由があります。

キリスト教が貧しい人々、社会的に弱い立場の人々に受け入れられていたことです。

キリスト教は生まれたばかりの宗教で礼拝堂などの施設がありませんでした。そのため、個人の家庭で礼拝を守り、共に食卓を囲んでいました。

それが他の人たちには何か、あやしい、いかがわしい集団に思われたのです。

しかも、教祖であるイエスはローマ当局によって反逆者として十字架にかけられた危険人物です。

さらに決定的なのは、キリスト者はローマの神々を敬おうとしなかったことです。そのため皇帝の怒りを買い、非国民とみなされました。

 

また、西暦68年にローマで大火がありました。

当時の皇帝ネロは、それをキリスト者のせいにしました。

キリスト者が放火したため、その火事が起きたというのです。

多くのキリスト者が、無実の罪で犠牲になりました。

 

このような状況の中でキリスト者は、神を信じることの意味を必死に問い続けました。

命を懸けてまで、キリスト者であり続けることに意味があるのか。彼らの中に迷いもあったはずです。

ヨハネによる黙示録は、このような状況の人たちに宛てて書かれた手紙です。そのメッセージは次のようなものです。

 

「今、強大な権力をもつローマ帝国も永遠には続かない。神様によって滅ぼされる時がくる。

信仰を守って、多くのキリスト者が命を失ったが、彼らは本当に死んでしまったのではない。

今、一時的に眠っているだけだ。やがて神様によって一人残らず甦(よみがえ)るときが来る。

だから、あなた方は信仰を守りなさい。ローマ皇帝とその権力を恐れてはいけない。

なぜならイエス・キリストこそが王の中の王、主の中の主なのだから…」

このようなメッセージです。

 

日本でも江戸時代、キリスト教は徳川幕府によって禁じられました。

キリスト者であることが分かると、信仰を捨てるか、そうでなければ磔(はりつけ)にされました。

取り調べのために「踏み絵」という巧妙な方法が用いられました。

踏み絵とは、キリストやマリア様を刻んだレリーフの銅版を踏ませるものです。

それを踏めない人はキリシタンとして捕えられました。

 

この方法が巧妙なのは、ただ踏むという、行動だけを求めたことです。

「心の中で何を思っていてもよい、ただちょっと、足を乗せればよい、それでお前も家族も皆、助かる。」

幕府の役人は、そう言ってキリシタンに踏ませたのです。

しかし、心と体は別のものではありません。

踏んだ瞬間、その人の心の中の大切なものが壊されてしまうからです。

幕府の役人は、そのことを知っていました。

こうしてキリスト教は徹底的に弾圧されたのです。

 

日本で「思想および良心の自由」が保障されるようになったのは、現在の日本国憲法によってです。

キリストこそが「王の王・主の主」という、ハレルヤ合唱の言葉には、このように「思想・良心の自由」への願いが込められているのです。

それは、地上のいかなる権力者によっても、決して侵されてはならない、個人の内面の自由、精神の自由の宣言でもあります。

今年も、すばらしいハレルヤ合唱をこのチャペルに響かせてください。

0220_eye

今朝の敬和