お知らせ

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2023/02/13

今週の校長の話(2023.2.13)「言葉と戦争」

【聖書:マルコによる福音書 3章4~5節】

そして人々にこう言われた。「安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。

 

先日、「ゴリラの森、言葉の海」(新潮文庫)という本を読みました。

ゴリラ研究の第一人者である山極寿一(やまぎわ じゅいち)さんと小説家の小川洋子(おがわ ようこ)さんの対談を収めた本です。

ゴリラについていろいろ知ることができました。

一部、紹介したいと思います。

 

ゴリラといえば、キング・コングのような狂暴な動物をイメージします。

しかし、実際は全く違うようです。

例えば、こぶしで胸をたたくドラミングという行動があります。

ゴリラの胸は息を吸うと太鼓の革を張ったようになります。

それを両手でたたくといい音が出る、そして実際は手のひらでたたくと言います。

それは、相手を脅かすためにやるのではなく、自己主張とか、興奮とか好奇心など、いろいろな感情表現に使われます。

 

ゴリラは他の動物と一緒に遊ぶことができます。

なんと、ゴリラがフクロウの子どもと遊ぶ動画が紹介されています。

ゴリラはそっと指を伸ばして、くすぐるようにしています。

フクロウも遊ぼうとしていることがわかるから逃げない。

逆に、飛べないゴリラをからかったりします。

ゴリラも楽しいので、ドラミングをしますが、フクロウの子どもが怖がらないように、小さな音でたたきます。

小さい生き物と遊べるのは、山極先生によると、ゴリラは弱いものの気持ちになることができる、弱いものに共感することができるからだ、と言います。

これは、すごいと思いました。

もちろんゴリラは言葉をもちません。

しかし、言葉以上に豊かな感情表現や自己主張を行っていることを知ることができました。

 

また、対談のなかでは、人間の暴力性について触れられています。

動物のなかで、戦争をするのは人間だけです。

人間の暴力性は何によってもたらされたのか、という問いです。

動物は、生きるために他の動物を殺して食べることはあります。

それは動物にとって生きるための宿命です。

しかし、彼らは人間のように、同じ動物同士で相手を絶滅させるような戦いをすることはありません。

 

人類は農業を始める前は、狩猟生活をしていました。

50万年前には槍などの道具が発明されました。

しかし、それは狩りのための道具でした。

それが、人間に向けられるようになり、戦争に用いられるのは、わずか数千年前といわれます。

人類の長い歴史にとって、それは最近のことです。

では、何が人間に、そのような暴力の行使をもたらしたのでしょうか。

山極先生は、「言葉だ、」といいます。

人間が言葉をもつことによって、そのような暴力性がもたらされた、といいます。

 

私はそれを聞いた時、驚きました。

言葉は、人間が自分の考えや気持ちを伝える大切なものです。

それが人間に、戦争など大きな暴力を引き起こした、というのです。

私は、山極先生の考えが、最初、理解できませんでした。

しかし、動物の中で言葉を持つのも人間だけならば、戦争を起こすのも人間だけです。

この両者には、何か関係があるのかもしれません。

どのような関係があるのか、考えてみたいと思います。

 

「犬」という言葉を考えてみてください。

現実には、いろいろな犬がいます。一匹一匹、みな違います。

しかし、犬と言うとき、その違いは消され、一匹一匹の犬は、「犬」という言葉で一括(ひとくく)りにされてしまいます。

人間もおなじです。私たちがアメリカ人、中国人というとき、現実に生活する一人ひとりのアメリカ人や中国人は、「アメリカ人」、「中国人」という言葉で一括りにされてしまいます。

敵と味方、という言葉も同じです。

戦争になれば、相手がどんな人間であるかは問題でなくなります。

敵か味方だけが問題だからです。

一人ひとりから顔が消えてしまいます。

 

このように、現実に生きる人間のリアリティーが失われ、逆に言葉が人間を支配し、人間が言葉に支配されるようになります。

その結果、人間は敵と味方に分断され、状況によっては、戦争などの激しい暴力性が引き起こされるのではないでしょうか。

それに対して、人間以外の動物は、絶えず目の前の相手にまっすぐ目をそそぎます。

言葉をもたない動物たちにとって、目の前の現実、目の前の相手が全てだからです。

 

言うまでもなく言葉の力は偉大です。

人間は言葉をもつことによって、現在ある私たちの文明を築きました。

しかし、光があれば必ず影があります。

光が大きければ、それだけ影も大きいはずです。

今、私たちは、言葉のもつ、この影の部分に目を向ける必要があると思います。

 

言葉の光と影、今日の聖書から、そのことについて学びたいと思います。

お話の前後を少し補います。手の麻痺した一人の男が会堂にいます。

その日は安息日でした。当時、安息日に仕事をしてはいけないことが、律法で定められていました。

律法とは彼らの宗教(ユダヤ教)の教えをまとめたものです。

イエスに敵対する人々は、イエスが安息日に、この人の手をなおすかどうかを監視しています。

それはイエスを訴える口実を探すためです。

もし、イエスがその人を治そうとしたら、訴えてやろう・・・そのように企んでいます。

イエスは、彼らの心を見抜いて言います。

「安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」

この質問に彼らは黙ってしまいます。

イエスは彼らに、怒りと悲しみを感じながらも、この人を呼び出し、手を治す。このようなお話です。

 

ここで、注目したいのは、イエスに敵対する人たちの態度です。

彼らには、手を麻痺した人の苦しみがわかりません。

イエスのことも、イエスが律法を守るかどうか、自分たちの側の人間か、外の人間か、つまり敵か味方か、それしか見ていません。

彼らは律法に縛られているのです。その結果、身近な人の命が見えなくなっています。

 

律法は、現在の法律と同じように、言葉によって書かれています。

ユダヤ教そしてキリスト教は「言葉の宗教」とも言われます。

しかし、時にその宗教の言葉が、人間を分断し、暴力を引き起こすことがある。

イエスに敵対した律法学者とは、この言葉の影の面に支配された人たちでもありました。

イエスは、その影の力と闘ったのです。

 

この物語には、このような状況を乗り越える道も示されています。

それは、身近にいる困難を抱えた人に、勇気をもって近づくことです。

直接、目の前に生きる、苦しみをかかえた一人の人間に向き合うことです。

その人の命に目を向けること、手の麻痺した男に、「手を伸ばしなさい」と声をかけたイエスのように、寄り添うことです。

そのとき奇跡は起きる。

今日の聖書は、そのようなメッセージを伝えています。

その恵みに感謝して、私たちも今日の一日、共に歩む者でありたいと願います。

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今朝の敬和