自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2023/01/30
【聖書:マタイによる福音書 25章13節】
「だから、目を覚ましていなさい。あなた方は、その日、その時を知らないのだから。」
3年生が自宅学習期間に入り、今日から皆さんの礼拝の座席が変わりました。
いよいよ1,2年生が学校の中心となります。
1年生は今週、水曜日からスキー教室です。
事故やケガに気をつけて、楽しい思い出をつくって来てください。
2年生は進路デイズがあります。いよいよ卒業後の進路について本気で考えなければなりません。
敬和の卒業生からよく次のような話しを聞きます。
「敬和を卒業して離れてみると、敬和の中では当たり前に思っていたことが、当たり前ではないことに気づかされる、そういうことがたくさんあった。」
私は、その一つに敬和の学習があると思います。
ある東京の大学に通っている卒業生から去年聞いたことです。
敬和では、人権や差別の問題、多様性、戦争や平和の問題などについて、たくさん学習してきたが、外に出てみると周りの人があまりそれらの問題を考えていないことに驚かされた。
学校でも、ほとんど学んで来ていないように思う。
たしかに、敬和には他の高校では学ぶことができない特色ある授業がたくさんあります。
それに対して、他の多くの高校では、受験勉強か部活動のどちらかが中心です。
しかし、敬和はそのどちらも学校の中心はおきません。
では、何が中心なのでしょうか。
自分探しです。
高校3年間で本当の自分を発見して欲しいと願って教育に取り組んでいる学校です。
そもそも敬和学園は、「受験勉強を、学校の中心には置かない」。
創立のときに、そうかたく心に決めて創られた学校です。
中心にあるのはキリスト教に基づく人間教育、つまり自分探しです。
それは今も変わりません。
もし、受験勉強を中心にすれば、学校の中に必ず差別が生まれます。
そうなれば、敬和はどこにでもある普通の学校になってしまうでしょう。
敬和生ならば皆、感覚的にそれが分っていると思います。
しかし、このことを敬和は勉強しなくてもよい学校なんだ、と誤解してはいけません。ここが重要です。
むしろ、人間的成長に必要な学びに、他校の生徒以上に、真剣に取り組んで欲しいと願っています。
2,3年生になると個人選択制カリキュラムになるのもそのためです。
強制されてではなく、主体的に学んで欲しいと願うからです。
ところで、敬和の卒業生には、大学で、他の学生よりも、よく勉強すると高く評価されている人が、意外と多いのです。
以前、キリスト教の大学の先生と研修会でご一緒したとき、敬和の卒業生の様子を、聞いて歩いたことがあります。
他の高校とちがって厳しい受験勉強を経験しないで、推薦で入学した敬和の生徒のことが心配だったからです。
ちゃんと大学の勉強について行けているのか、気になったからです。
ところが、多くの先生は、「敬和の卒業生はよく勉強していますよ」と言ってくださいました。
少しほっとしました。
「大学に行くために、高校でやっておいた方がよいことがあったら教えてください」と私が聞くと、ある先生が「英語はしっかりやって来た方がいいですよ」と教えてくれました。
私はこのことを次のように解釈してみました。
多くの敬和生は、自分が受験勉強をしてこなかった不安から、入学後、大学の勉強について行くために必死で勉強する。
それに対して、受験勉強をたくさんやって来た人たちは、大学に合格すること自体が目的だから、入ったらあまり勉強しなくなる。
おそらく敬和生は、大学に入ってから勉強の面白さに目覚めるのかもしれない。
そして3年、4年とたつうちに、他の高校の卒業生よりも、実力をつけて行く人が意外と多いのではないか。
そのように思いました。
それは、大学に入ってから、敬和で蒔かれた種が芽を出し、大きく育って行くこととも言えます。
しかし、英語だけは違う。英語は今までの積み上げがものを言う、受験勉強で鍛えられてきた学生にかなわない。
推薦で入学した学生のそこが弱点だ、だから、高校時代に英語だけは他の受験校の生徒並みの勉強をしてきて欲しい、そのように大学の先生は言われたのだと思います。
貴重なアドバイスだと思いました。
もう一つ、敬和生の勉強の弱点として、テストが終わるとやったことをすぐ忘れてしまう、ということがあります。
そのため、英単語など基本的な知識が定着しない、英単語以外にも積み上げられた知識量が全体に少ない。
理由は、はっきりしています。
それは敬和では定期テストの結果で評定が決まりますから、定期テストのための勉強はします。
しかし、終われば忘れてしまう。
私たちは、このことを弱点と自覚して、それを克服するように、復習するなど努力しなければなりません。
さて、今日の聖書の箇所は「10人のおとめのたとえ」と呼ばれるお話です。
ある夜、婚宴が開かれました。花嫁の友人である10人のおとめが花婿の来るのを待っています。
花嫁の友人が、ともし火を持って花婿を出迎え、会場まで案内するならわしが当時あったといいます。
10人のうち、5人は賢く、5人はおろかでした。
おろかなおとめたちは,ともし火だけを持っていました。
かしこいおとめたちは,ともし火だけではなく、壺にともし火のための油を入れて持っていました。
花婿は到着が遅れました。おとめたちは全員眠り込んでしまいました。真夜中、「花婿だ、迎えにでなさい」という声が響き、おとめたちは目を覚まします。
ところが、おろかなおとめたちの油はきれていました。
分けてくれるように頼みますが断られます。
油を買いに行っている間に花婿は到着し、かしこいおとめたちが出迎えます。
家の扉は閉められ、おろかなおとめたちは、もどって来ても家に入れてもらえません。
「だから、目を覚ましていなさい。あなた方は、その日、その時を知らないのだから。」と、聖書は教えます。
このたとえは、イエス・キリストの訪れを待ち望む私たちの生き方を教えてくれます。
賢いおとめたちのように、私たちは、ともし火だけではなく、油も同時にそなえなければならない。
つまり、ともし火の輝きだけを求めるのではなく、その輝きを生み出すもとになるものに心を向けなければならない、というのです。
私は、学ぶこととは、かしこいおとめ達のように壺を準備し、油を一滴一滴、壺にためるのに似ていると思います。
毎日、勉強したことを一滴一滴、大切にこの壺にたくわえてください。
それは、皆さんの歩みを照らす、ともし火の光となるからです。
若い時期にたくわえられた知識や身につけた技術は、その人を生涯、支え、導いてくれます。
その恵みをおぼえて、今日もそれぞれの学びに励むものでありたいと願います。
今朝の敬和