自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2023/01/16
【聖書:コリントの信徒への手紙2 4章18節】
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
皆さんは「ダークマター」という言葉を聞いたことがありますか。
ダーク(dark)は暗い、マター(matter)は事柄という英語です。
日本語では暗黒物質と翻訳されています。
それは目には見えないけれど、この宇宙に確かに存在する物質とされています。
しかも、どんな物にもぶつからずにすり抜けることができます。
暗黒物質などと翻訳されたために黒い物質をイメージしますが、そういうものではありません。そもそも色などありません。
正体不明でその働きだけが少しずつ分かってきている物質です。
またブラックホールとも関係ありません。
私が高校生の頃、宇宙のすべての物質は原子からできていると習いました。
原子とは、水素や酸素、炭素など118種類から成るものです。
ところが現在の宇宙物理学では、原子からできている物質は、なんと宇宙全体のわずか4パーセントで、残り96パーセントはダークマターなどの正体不明の物質からなりたっていることがわかってきました。
私が高校で習ったことは間違いだったのです。
そして、研究によってこのダークマターの働きが少しずつ明らかになってきています。
ダークマターがなければこの宇宙はできなかったと言われます。
ダークマターは、銀河宇宙にとって母親のような存在なのです。
ビッグバンにより宇宙が始まったとき、ダークマターが互いにあつまる場所ができて、その重力に、さまざまな原子が引き寄せられました。
その結果、星や銀河が誕生したというのです。
つまり、ダークマターがなければ星や銀河は生まれなかった。
ダークマターが星や銀河をつくる物質を引き寄せる働きをした、というのです。
そして、星や銀河が生まれなければ当然、私たち人間も生まれません。
人間はすべて、その成り立ちからいえば「星のかけら」だからです。
このチャペルにいる人も全員「星のかけら」です。
私は、この大きなチャペルに入るとき宇宙を感じることがあります。
一人ひとりが、星の光できらきら輝いているかと思うと素敵です。
このように、人間の誕生にもこのダークマターが関係していたのです。
ところで、聖書には「聖霊」という言葉が何度も出てきます。
聖霊は、風や人間の息にたとえられます。
私はダークマターについて聞いたとき、なぜか聖霊をイメージしました。
両者は、目には見えないけれど大きな働きをしているからです。
ヨハネによる福音書3章に次のようなお話しがあります
あるときイエスはニコデモという人に、神の国について質問されます。
イエスは次のように話されます。
「人は、新たに生まれなければ神の国を見ることはできない。」
ニコデモはイエスに言います。「年をとった者が、どうして生まれることができるでしょうか。もう一度、母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
イエスはお答えになります。
「『あなたがたは新たに生まれねばならない』と言ったことに驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、それがどこへ行くかを知らない。霊から生まれた者は皆そのとおりである。」
皆さんも子供の頃、風はどこから来て、どこへ行くか不思議に思ったことはないでしょうか。
人が新たに生まれるとは、この風の動きのように不思議なことだ、と言うのです。
風は目に見えません。しかし、その働きは目に見えます。
たとえば、風が吹いて木が揺れると風そのものは見えませんが、枝の動きから風が吹いていることがわかります。
「神の国」を見るとはそのようなものだ、とイエスは言うのです。
皆さんは校風という言葉を聞いたことがあると思います。
学校の風と書きます。敬和学園の校風は何でしょうか。
敬神愛人、生徒が主体的に活動する自由な校風、敬和の構内に足を踏み入れると空気が違う、などと言われることもあります。
敬和の校風も風と同じように、直接、目で見ることはできません。
しかし、その働きを見ることはできます。
生徒一人ひとりの行動、考え方、生き方に校風は現れるからです。
先週、讃美歌発表会が行われました。
例年はクリスマス行事として行われますが、コロナのために中止になったものです。
全クラス、年が明けてからほとんど練習もできない中、それぞれ一生懸命、発表してくれました。
特に3年生の合唱は、高校生活3年間の集大成に相応しいものでした。
それぞれが困難を乗り越え、全校が一つになることができた発表会でした。
私は、これこそが敬和学園の校風であると思いました。
さて今日の聖書です。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
私が敬和に就職した年、このチャペルはまだありませんでした。
毎朝の礼拝は体育館で行われていました。
そして、体育館の正面にはこの言葉は掲げられていました。
この言葉を見て、皆さんの先輩方は毎朝、礼拝に臨んでいたわけです。
見えるものではなく、見えないものに目を注ぐこと。
それは、どのように厳しい現実のなかにあっても、目には見えない神様の御心に希望をおくことです。
私たちもその恵みをおぼえて、今日の一日、共に歩む者でありたいと願います。
今朝の敬和