月刊敬和新聞

2022年11月号より「沖縄修養会」

校長 小田中 肇

 私は三年生の沖縄修養会(3泊4日)に同行しました。直前まで台風の襲来やコロナ感染症によるクラスターの発生が心配されましたが、幸い天候にも恵まれ充実した学びの時を経験できました。
 沖縄は77年前、日本で唯一、地上戦が行われた場所です。今回は戦争に関係する重要な場所を訪問し、現地の方のお話を聞き、平和について学びました。
 現在の基地問題にも触れ、普天間バプテスト教会の神谷武宏牧師からは緑ヶ丘保育園の保護者の方々とともに、子供たちの安全を守るために国を相手に改善を求める活動を続けているお話を聞くことができました。また、美ら海水族館見学、沖縄音楽(唄と三線)や伝統舞踊エイサー鑑賞などその豊かな自然や文化に触れることもできました。 

命の重さ
 印象に残ったことをいくつか報告します。先ず、三年生のお話を聞く姿勢がしっかりしていたことです。気持ちが重くなるようなところでも、みんな真剣に耳を傾けていました。資料館でも時間が足りなくなるくらい熱心に見ていました。事前学習にしっかり取り組んで参加していることが伝わってきました。さすがは敬和学園の三年生だと思いました。
 今回、訪問したなかに「ひめゆり平和記念資料館」があります。アメリカ軍が上陸した年、女学生240名が沖縄陸軍病院に動員され、そのうち136名が亡くなりました。年齢は16歳から18歳です。
 資料室の入り口に大きな写真がありました。動員前に撮られた集合写真です。みんな笑顔で、楽しそうに笑っています。希望にあふれた表情をしています。真ん中には校長先生が座り笑顔で写っています。今の高校生と変わりません。
 別の部屋には、亡くなられた一人ひとりの写真が壁一面に展示されていました。写真の下には名前とその人の性格、好きなもの、そして亡くなった場所が書かれていました。写真からは女学生たちがどんなに生きたかったことか、その思いが痛切に伝わってきました。写真を見る人に、自分の命を大切にするように、そしてその命を生き抜くようにと、語りかけてくるようでした。
 私は自分の母親のことを思い出しました。母は6年前に86歳で亡くなりましたが、終戦の時、15歳でした。この女学生たちと同世代です。もしこの女学生の一人が母だったら、どうだったろうか。私はこの世に生まれていません。
 そして、今も世界では戦争やテロで多くの方が亡くなっています。そのことを思うとき、一人ひとりの命の重さに気づかされます。 

今こそ平和教育を
 言うまでもなく戦争は自然災害ではありません。人間が引き起こしたものです。かつて日本は中国をはじめアジアの国々やアメリカと15年間にわたる戦争をしました。日本は勝ち目がないと分かっていながら戦争をやめることができませんでした。その結果、沖縄の住民をはじめ多くの犠牲者を出しました。結局、広島と長崎に原爆を投下されてようやく無条件降伏を受け入れました。
 当時の若者は国のために命をすてることが学校教育によって教えられました。教育の重要性にあらためて気づかされます。ところが、今、日本で平和教育はほとんど行われていません。広島、長崎、沖縄では小学校から熱心に行われていますが、それ以外の地域ではほとんど行われていないのが現実です。
 何人かの生徒に、小・中学校で平和教育を受けたことがあるか質問してみました。するとほとんどの生徒は「ない」と答えました。それは今に始まったことではありません。私は栃木県出身ですが、小・中・高等学校で平和教育を受けた記憶がありません。
 私が生まれたのは終戦から12年後です。まわりの大人はみな戦争体験者です。戦争中、食べ物が不足して苦労した話はたくさん聞きましたが、戦場で何があったかを語る大人はいませんでした。それは決して触れてはいけないことでした。日本人は戦争の実態と向き合うことをせず、経済復興に邁進します。そして世界の奇跡と言われる高度経済成長を実現しました。一方、学校で平和教育は重視されませんでした。
 私自身、平和の問題について学んだのは敬和に就職してからです。修養会での学びや私が所属する新潟教会の礼拝説教や平和集会に参加して少しずつ学んできました。
 その意味でも、敬和で行われている平和教育は貴重だと思います。修養会だけではなく毎週の聖書や社会科の授業、英語特講「ヒロシマ碑巡りの旅」など様々な場で取り組んでいます。そして、この混沌として戦争の危機をはらんだ今の世界においてこそ、敬和生が卒業後、社会で「地の塩、世の光」として、平和をつくりだす者として歩んで欲しいと願います。そのための教育にいっそう励む学園でありたいと願います。

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修養会(3年生)沖縄県