自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2022/11/28
【聖書:創世記 4章4~6節】
アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。」
昨日からキリスト教会ではアドベントの期間に入りました。
アドベントとはイエス・キリストのご降誕を待ち望む期間です。
チャペルの聖餐台(せいさんだい)におかれた大きなクリスマスリースには5本のロウソクが立てられています。
今日は1本目に火がともされました。
来週には2本目もともされ、クリスマス礼拝の日には全てのロウソクに火がともされます。
今日から毎朝、このロウソクの火をともして、主のご降誕を待ち望みたいと思います。
それでは今日のお話しです。
私たち人間は、人を思いやる心や困っている人に手を差し伸べるやさしさをもっています。
しかし、それとともに他人を妬み、相手に憎しみをおぼえることがあるのも事実です。
時として相手を傷つけ、破滅に追いやりたい衝動にとらわれる危険性をはらんでいるのも人間だからです。
聖書は、そのような感情に飲み込まれてはいけないと繰り返し教えます。
今日はそのような感情の犠牲となった若者のお話し、創世記4章、カインとアベルの物語から学びたいと思います。
神様によって最初に創られた人間はアダムとイヴです。
二人にはやがて男の子が生まれます。
長男のカイン、次男のアベルです。
二人は成長し、長男のカインは土を耕す者に(=農業従事者)、アベルは羊を飼う者になります。
当時、農業は生活も安定し豊かな生活が保障される職業でした。
それに対して、羊飼いは厳しい労働の割に収入も低く、一箇所に定住することのできない不安定な仕事でした。
長男であるカインが先に有利な職業を選んだと言えます。
当然、カインの方が豊かな神様に祝福された人生を送れるはずでした。
ところが、そうはなりませんでした。
二人はある時、神様に供え物をささげます。
そのとき、「神様はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。」と記されています。
献げ物に目を留めるとは、その人の人生を神様が祝福する、という意味があるそうです。
弟のアベルは貧しくても、神様に祝福された幸せな生活を送っていたのです。
この状況に対するカインの心の動きが今日の聖書に描かれています。
カインは、「激しく怒って顔を伏せた」とあります。
「顔を伏せる」とは他者との関係を拒絶し、自分の世界に引きこもることを意味します。
しかし、そのようなカインに神様は呼びかけます。「どうして怒るのか。なぜ顔を伏せるのか。」
しかし、この呼びかけにカインは答えません。
それどころか、カインはアベルを野原に連れ出し、殺してしまいます。
なぜ、カインは自分の弟アベルを殺してしまったのか、他に方法はなかったのか。
そして、自分より貧しく、弱い立場にある弟を殺してしまう、そのような兄カインを神様はどのようにご覧になるのか、そのことについて考えたいと思います。
カインは長男として生まれた自分の方が、当然、幸せになれると思っていました。
また、羊飼いの弟を自分より劣る者として蔑(さげす)んでいたかもしれません。
ところが、神様は弟のアベルを祝福しました。
なぜ、自分ではなく弟なのか。カインの心に妬みと憎しみが芽生えました。
このときカインは、アベルの幸せにばかりに目が行き、自分に与えられた幸せには気がついていません。
農業という、弟に比べてはるかに安定した職業に就いている恵みを忘れ、弟に対する憎しみだけに心を奪われてしまったのです。
さらに、神様の呼びかけにも耳をふさぎ、無視しました。
これは決定的なことでした。
もし、カインが神様の呼びかけに答え、「なぜ、あなたは弟ばかり祝福されるのですか。なぜ私のことも祝福してくれないのですか」、と素直に問いかけていれば状況は変わっていたと思います。
そのとき神様は、きっと次のようにお答えになったはずです。
「カインよ、わたしはお前を見捨ててなんかいないよ。その証拠におまえには日ごろから十分な恵みを与えているではないか。わたしはお前がこの試練を乗り越えることを期待しているよ。」
ところがカインは神様の呼びかけに答えることなく、憎しみから弟を殺害してしまったのです。
では、その後、神様はどうしたでしょうか。アベル殺害後の状況を紹介します。
神様は再びカインに問いかけます。
「おまえの弟アベルはどこにいるのか」
もちろん神様は、カインがアベルを殺したことをご存じです。
それでも、問いかけます。
なぜでしょうか。
弟を殺してしまった後も、神様はカインを見捨てていないからです。
しかし、その問いかけに対しても、カインは「知りません。私は弟の番人ですか」と開き直ります。
本当にカインはこのとき何も分かっていません。
おそらく神様は、カインに次のように言って欲しかったのです。
「神様、自分は取り返しのつかないことをしてしまいました。どうか私の罪を赦してください。」
人間の運命は、一時の感情で犯してしまった行為では決まりません。
そのあと、神様の呼びかけにどのように答えるかで決まります。
開き直り、全く反省しようとしないカインを神様は厳しく罰します。
彼を土地から追放し、地をさまよう者としてしまいます。
しかし、そこで初めてカインは神様に語りかけます。
土地を失い、無職となり、地をさまよう者となって、初めて自分の罪と向き合うことができるようになったからです。
カインは訴えます。「私の罪は重すぎて負いきれません。そして地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会う人は私を殺すでしょう。」
カインのこの言葉に神様は答えます。
「カインを殺す者は、誰であれ7倍の復讐を受けることになる。」
つまり、神様はカインの命を守ると約束するのです。
やがて、カインは出て行き、エデンの東に住んだ、と記されています。
これがカインとアベルの物語です。
さて、私たちは誰でも、他人を妬み、憎しみにとらわれることがあります。
そして、この世に不公平があるのも事実です。
他の人が皆、楽しそうに見え、自分だけ運が悪く、不幸に思えてしまうこともあるはずです。
私たちにとって、カインは全くの他人ではありません。
そして、社会では連日のように、いたましい事件が起きています。
また、まもなく終わろうとする2022年は、ロシアによるウクライナに対する軍事行動があった年として記憶されるでしょう。双方が今も、激しい戦いを続けています。
しかも、ロシアとウクライナは歴史的には兄弟のように近い関係にある国です。
先ほど、人間の運命は一時の感情や衝動で犯してしまった行為では決まらない。
その後、神様の呼びかけに、その人がどのように答えるかで決まると言いました。
では、この神様の声はどこから聞こえて来るのでしょうか。
空のかなたから聞こえて来るのでしょうか。
それはなかなか難しいことです。
神様の声は、私たちの友達や家族、信頼できる年長者の口をとおして告げられることがあります。
しかし、それは先ず、一人ひとりの心に語りかけられます。
私たちはそれを「良心の声」とよびます。
英語で良心をコンシェンス(conscience)といいますが、これは「共に知る」という意味だそうです。
誰と共に知るのでしょうか。
神様です。「神様と共に真実を知ること、」それが人間の良心だというのです。
しかし、このエピソードで最も印象的なのは、罪を犯したカインに呼びかけ続ける神様の姿です。
どんなに大きな罪を犯した人間も、決して見捨てない神様の愛が、そこには余すところなく表れているからです。
私たちもその恵みを覚えて今日の一日、共に歩む者でありたいと願います。