お知らせ

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2022/11/14

今週の校長の話(2022.11.14)「愛について」

校長 小田中 肇

 

【聖書:マタイによる福音書 25章 40節】

そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである。」

 

 

敬和学園の教育理念の一つに「生徒一人ひとりを大切にする」というものがあります。

毎年、発行している学校年鑑にも次のように書かれています。

敬和学園の教育理念 

1.個人の尊重

「一人」を大切にし、一人ひとりが学校の主人公である教育。

参考までに、2番目は国際的視野に立つ教育。3番目は労作教育です。

 

今日はこの「大切にする」という言葉に注目したいと思います。

なぜなら、それは日本のキリスト教の歴史において重要な言葉だからです。

キリスト教は、今から470年ほど前、ヨーロッパのフランシスコ・ザビエルというイエズス会宣教師によってもたらされました。

日本は戦国時代、織田信長の時代です。

その後、宣教師たちは次々に日本に来ましたが、豊臣秀吉の時代にキリスト教の布教は禁止されます。

そのため迫害を受けたり、国外追放されたりしましたが、宣教師たちが国外追放を受ける前に、これだけは日本人に伝えたいと思ったものがありました。

それは「神の愛」です。

しかし、宣教師たちはそのとき「愛」という言葉を使わずに「御大切」という言葉を使います。

彼らは、神の愛を「デウスの御大切」と言いました。(デウスとはラテン語で神という意味です)

「愛」という言葉よりも「大切」という言葉の方が、当時の人々に直接、訴えたからだと思います。

神様は、あなた方を年齢、性別、身分、財産、能力というものには一切かかわりなく、大切に思っていらっしゃる、と宣教師たちは教えました。

 

これは、家柄や身分制度に支配されていた当時の日本人にとって驚くべき教えでした。

身分の低い人、差別されている人も、神様は、分け隔てなく大切に思ってくださる、というのです。

それが、「神の愛」=「デウスの御大切」でした。

宣教師たちは、これだけは日本の人々に伝えたいと願ったのです。

 

ところで、この御大切という言葉で表現された愛は、人間の好き・嫌いとは違います。

例えば、食べ物の好き・嫌いは人それぞれです。

何年か前のアンケートによると、グリーンピースやシイタケ、ピーマンが苦手な高校生が多いようです。

 

生き物も同じです。昔はクモが苦手な人はいましたが、最近は虫、全般が苦手という人が増えているように思います。

しかし、敬和生ならば3年間の労作で鍛えられ、卒業するころには虫が平気になる人もいると思います。

猫好きの人にとっては、猫が苦手な人がいること自体、不思議なことでしょう。

 

ところで、グリーンピースは嫌いだといって、グリーンピースが地球から無くなればいいと思う人はいないと思います。

グリーンピースが好きな人もたくさんいます。そもそも自分の好き嫌いで、相手の存在を否定することはおかしなことです。

グリーンピースにはグリーンピース自身の価値があるからです。

 

人間に対しても同じことが言えます。

誰にでも、好きな人がいれば、苦手な人、嫌いな人がいるものです。

これは、仕方のないことです。

しかし、だからといって自分が苦手な人の存在を否定することはできません。

その人にも、親がいて、その人自身の価値があります。

ですから、自分の好き・嫌いだけで行動したとすれば大変なことになります。

 

医療従事者を想像してみてください。

自分が好きなタイプの患者さんには親切にするが、苦手な人には治療の手を抜いていたらどうでしょうか。

私だったら、そんな病院には行きたくありません。

教育関係者も同じです。好きなタイプの生徒には優しいが、嫌いな生徒には冷たい態度をとっているとしたらどうでしょう。

ひいきの激しい先生として、誰からも信頼されません。

二人とも愛のある医療従事者、教育者とは、決して言えません。

このことは、どのような職業についても言えることです。

 

自分の好き嫌いを超えて、相手の人格を認めることをキリスト教では「愛」とよびます。

好き嫌いという枠を超えて、相手の存在を認めること、それぞれが大切な存在であることを認めることです。

敬和の3年間は、皆さんにとって、この「愛」を学ぶための3年間であって欲しいと願います。

 

以前(2008年)、敬和学園大学のクリスマス礼拝で、カトリックのシスターでおられる渡辺和子さんのお話しを聞く機会がありました。

そのとき、インドのマザー・テレサのことに触れて、次のようなお話をされました。

マザー・テレサは1979年にノーベル平和賞を受賞されました。

マザーは、インドのカルカッタという町で「死を待つ人の家」を営み、そこでは、病気になったホームレスの人たちなど、行き倒れになった方を迎え入れ、温かく介護して、亡くなるまでお世話します。

マザーが日本に来られた時、渡辺和子さんが案内し、通訳をされたそうです。

教会でお話とお祈りの集いをしていただいたとき、ある男性がマザーに次のような質問をしました。

 

「私はあなたを尊敬しています。でも一つ、わからないことがあります。

それは、あなたのところには十分な医薬品も人手もないと聞いています。それなのになぜその足りない薬や人手を、それを与えたところで死ぬに決まっている人たちに与えるのですか。

それは無駄ではありませんか。同じ与えるならば、それを与えることによって健康を取り戻す人たちに与えたらいいでしょう。」

 

このような質問です。それに対してマザーは、静かに毅然と次のように答えました。

「与え続けます。なぜなら、私たちの「死を待つ人の家」と呼ばれる施設に連れて来られる人は、まず生まれたときから、望まれないで生まれた人たちがほとんどです。

そして育っている間じゅう、人々から「汚い」「臭い」「邪魔だ」「あっちへ行け」という言葉しか浴びせられないで生きて来た人たちです。

 

その人たちが道端で、今しも、誰にも看取られずに死のうとしている。

その人たちは「死を待つ人の家」に連れて来てもらって、まず名前を聞かれ、宗教を尋ねられます。

これは人間として、あなたは名前を持った、宗教を持った一人の人格なのですよ、ということの証明だからです。」

このように答えられました。

 

彼らは、苦しかったその生涯の最後に、今まで一度も味わったことのない「愛」を受けて死んで行きます。

名前を聞いてもらい、宗教を尋ねてもらい、やがてその宗教で葬られて行くのです。

こうして人間としての尊厳が回復されます。そこには神の栄光、デウスの御大切が輝いています。

私たちも、その恵みを覚えて今日の一日を共に歩む者でありたいと願います。

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