お知らせ

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2022/11/07

今週の校長の話(2022.11.7)「ムネアカドリ」

校長 小田中 肇

 

【聖書:マルコによる福音書 15章 16節~20節】

 兵士たちは官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。また、何度も葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外を引き出した。

 

 

今日は、先日、読んだ「ムネアカドリ」というお話しを紹介したいと思います。スウェーデンの女性作家、ラーゲルレーヴという方の作品です。

 

昔、神様が天と地を創られたとき、思い立って灰色の小鳥を創られました。

「いいかい、おまえの名はムネアカドリだよ…」そう言って、小鳥を空に飛ばせました。

ところが、そのからだは全部灰色で、どこにも赤いところがありません。

胸も、ほかと変わらぬ灰色でした。

そこで小鳥は神様のところに行って聞きました。

「くちばしから、尾の先まで灰色なのに、なぜ、私の名前はムネアカというのでしょう。」

神さまは静かに微笑まれて答えます。「わたしがムネアカと決めたのだから、おまえの名前はムネアカドリだよ。しかし、いつまでも そのままだとは かぎらないよ。」

 

その日から数えきれないほどの年月(としつき)が流れました。

ムネアカドリは赤い胸毛を、手に入れようとして、様々な努力をしました。

燃える思いで、仲間に恋をしたこともありました。

強い鳥を相手に、勇ましく戦ったこともありました。

胸が張り裂けるほど高らかに歌を歌ったこともありました。

しかしすべて失敗でした。からだは灰色のままでした。

 

ある日、小鳥は不思議な出来事に出会います。一人の優しそうな男の人が、捕えられ、十字架に釘でうちつけられています。

頭には、トゲだらけの茨の冠(かんむり)をかぶせられ、血を流して苦しんでいます。

 

小鳥はいたたまれなくなります。何とかして苦しみを減らしてあげたい。

そう思って、空中に飛び立つと、大きな輪をえがきながら、十字架の人の周りを舞うのでした。

 

でも近づくことができません。小鳥は、今まで、怖くて人間に近づいたことがなかったからです。

しかし、十字架の人の苦しみを見ていると次第に勇気が出て来ました。助けてあげたい。

そして、思い切って飛んで行って、その人の額に刺さったトゲを1本、引き抜きます。

そのトゲを抜いた瞬間、血の滴(しずく)が、ひとしずく、小鳥の胸に落ちます。滴はみるみる広がり小鳥の胸毛を赤く染めました。

この時をさかいに、小鳥はムネアカドリになることができた、そのようなお話しです。

 

このお話しでは、ムネアカドリという「名前」が重要な働きをします。

私たちには皆、親につけてもらった名前があります。そこには子どもに対する、親の願いが込められています。

 

今日のお話しを読んで、私たちには、親がつけてくれた名前とは別に、神様がつけてくれている名前があるのではないか、そのように思いました。

つまり、私たちが生まれる時、神様はそれぞれに名前を与えてくださっている、それは、神様が、私たち一人ひとりに願いを込めて、この世に生まれさせてくださっているということです。

しかし、それが、どんな名前かは、本人にまだ、知らされていません。

私たちの人生の目的とは、まだ分からないその名前を発見すること、そして、その名前にふさわしい存在になることではないでしょうか。

 

小鳥は、十字架のイエスの額に刺さったトゲを、勇気を出して、引き抜いたとき、初めて、神様から与えられた名前に、ふさわしい存在になることができました。

それは小鳥が本当の自分、「ムネアカドリ」になることができた瞬間です。

 

私たちの人生にも、本当の自分となるための出来事、そのような瞬間が、必ず備えられています。

そのときは、勇気を出して、あの小鳥のように、思い切って、行動しなければなりません。そのことを今日のお話しは教えてくれます。

 

さて、今日の聖書です。イエスが十字架にかけられる、直前の様子が描かれています。

ローマの兵隊たちはイエスを、これでもか、これでもか、というくらい、いたぶり、もてあそびます。

イエスに、茨で編んだ冠(かんむり)をかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、何度も、棒で頭をたたきます。そして唾を吐きかけ、ひざまずいて拝みます。

このようにさんざんいたぶった後、十字架にかけます。

ここには、兵隊たちの残虐なふるまいを通して、人間の救いようのない「罪」が描かれています。

それは、今も戦争やさまざまな場で繰り返される残虐行為によって苦しむ多くの罪のない人の姿に重なります。

 

イエスはなぜ、このような苦しみに遭(あ)わなければならなかったのでしょうか。

聖書には、イエスは罪の赦(ゆる)しのため、人間の罪を担って十字架にかけられた、と記されています。

罪の赦しとは、人が本来の自分を取り戻し、新しい命に生きることです。

ムネアカドリもイエスの流した血によって、本来の自分になることができました。

私たち一人ひとりが、罪を赦され、本当の自分を生きることが出来るようになるために、イエス・キリストの十字架の苦難と死があったのです。

その恵みを覚えて、今日の一日、私たちも共に歩む者でありたいと願います。

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